重たい話
死んだらどうなる?@「テキトウテキスト」さん。
人間には1秒先のこともわからない。たとえばこの文章だって、最後まで書けるかどうかわからない。書いている最中に心臓発作が起きたり脳で大出血が起きたりということが絶対にないとはいいきれない。生とはそれほど不確かなものだ。
しかし、それを真正面からとらえてしまっては、逆に生きるのが困難になる。二度と目を覚まさないのではないかという恐怖で眠れなくなってしまったら、それが原因で死んでしまう。だから、できるだけそれを考えないようにという防衛機能がはたらく。そうやって人は健康で生きているかぎり死を頭から追い出していられる。
高校生の時に持久走で心臓がオーバーロードして病院に担ぎ込まれたことがある。その後おニャン子クラブのファイナルコンサートで張り切りすぎた時も同じ症状が出たので、今もコンサートに赴く際はどこか命がけの気分がある。
二十代の前半に、真剣に死んでしまいたいと思いつめたことがあり、実際に手首を切ってみた。傷跡はまだ残っていて、キレイにするには保険のきかない手術をするほかないらしい。きっと一生このままだろう。
そんな経験をしているせいか、恐らく人よりは“死”を意識することが多いんじゃないかと思っている。
そういう立場から見ると、日常にも危険は潜んでいる。たとえば、現在住んでいるところは田園地帯なので「稲の生育に悪影響」とかで街灯が少なく、また農道や路地も多いので外を歩く時は注意がいる。CDやDVDや写真集を買うときは地元に書店もCDショップもないため隣の県まで自転車で行くのだが(運転免許を取っておけばよかったと、この町に来て初めて思った)、県境を流れる川にかかる橋は、柵(手すり?)が自転車に乗ると腰より低い程度の高さしかなく、携帯電話でもいじりながら走ろうものなら簡単に転落できる。
死はすぐ隣にいる。そんなことを考えながら生きていると、青封筒が届くたび、「こんな先のコンサートのチケットを取るのはいいが、当日まで生きてる保証はない」なんてことも頭をよぎったりする。だからこそチケットを取ることで「この日までは生きていよう」と思ったりもする。実際、真剣にあるアイドルグループのコンサートに行くことが生きる理由だったこともあった。
死を意識することで、逆にポジティブになれることもある。これは僕が仕事も家庭も持っておらず“社会的責任”というものを背負っていないという特殊な事情もあると思うが、
「とりあえず命までは取られない」
こう考えることで、(可能性としては)なんでもできる。ブログでバカなことを書いて恥をかくことだってできる。
僕は自分のことしか頭にないので、“自分が死んだら周りの人間はどう思うか”ということは一切気にならない。その反応を僕が見ることはできないのだから、気にしたってどうにもならない。こういう人間をエゴイストというのだろうか。
僕が自分の死を思うときまず考えるのは、
「たとえば自分が明日死んでしまうとして、それまでに、たとえ誰にも届かないとしても誰かに伝えたいことはあるか」
それを伝えるために、僕はキーボードを叩いている。言葉にすれば、誰かがそれを受け取ってくれるだろうと、淡い希望を抱いて。その割に「℃-uteのPVの感想がうまく書けない」で更新をほったらかしにしたりもするのだが、それはそれ。いい加減なことは書きたくないし(けっこう書いてるが、根拠がないか薄いだけで本人は真剣なのだ)、書いたとしても読めばわかるので、納得のいくものを書くには時間がかかる。毎日更新するなんて神業は僕には無理だ。
伝えたいことというのは、言葉にすれば簡単なこと。
俺はここにいる。俺がここにいる。これが俺だ。
僕の書くものは、要約するとすべてこの三つの言葉に尽きる。我ながら自己顕示欲の強さに呆れてしまう。
もしも、あと24時間で人類が滅亡するとしたら。
ありがちなテーゼだが、もしかしたら僕は「ブログを更新する」と答えるかもしれない。
なんかどうでもいいようなバカ話を書いて、「この非常時にこんなバカなことをやってる大バカがいる」と、そんな非常時にネットなんかやってて、あまつさえ僕の文章なんか読んで時間の無駄遣いをしているオタンコナスに笑われて最期を迎えたい。
誰にも見られないとしても、誰かが見ることを想像しただけで笑って死ねそう気がする。
誰かの人生が終わったとき、果たして彼(女)は何を成し何を残したかということが検証される。そこで初めて偉大な業績や非凡な才能を認められる人もいる。有名なところでは宮沢賢治がその一人だ。
そういうものだとはわかっている。生きているかぎり人は何かを成しているものであり、総括されるのが死後になるのは致し方ないという気もする。
死者の業績を称えあたらめて記録しようというのは、ある種の儀式(社会的葬式と仮に名付けてみる)なのかもしれないし、彼(女)をその仕事の中で生きながらえさせることかもしれない。
しかし、賞賛の声が本人に届くことはない。それは悲しい。
死んでしまったことがきっかけで業績が認められなくなってしまった人というのもいる。たとえば岡田有希子だ(※)。死後20年が経った今も“失恋で自殺したアイドル。後を追う若者も多く現れた”というスキャンダラスなイメージは払拭されず、名曲・名盤を多く残している(最後のアルバム「ヴィーナス誕生」よりも“美しい”アルバムを、僕はこれまで聴いたあらゆるジャンルを通じて他に知らない)にも関わらず、それらを虚心に評価しようという試みはなされていない。聴くのはファンだけ(※※)。ファンとそれ以外の人々の双方にとって、意味合いはまったく逆ではあるが“特別な存在”になってしまっている。この状況が改善されるには、あと80年くらい経って、彼女を“特別な存在”と思う人々のすべてが死んでしまうのを待つほかないと思っている。
これもまた悲しい。死してなお、彼女は針の筵に座らされている。死んでいるのに殺され続けている。
世の中の人々というのはなんと残酷なことをしているのだろう。
生きている者になら、心から誠意を尽くして詫びればいつかは許されるだろう。
しかし、死んだ者から許されることはない。詫びの言葉さえ聞いてもらえない。
だから死者は丁重に扱われるのだ。
それなのに、死者をまだ殺して平気でいられる者が圧倒的大多数を占めている。
何かを見たり聞いたり食べたり読んだりしてポジティブな感情を抱いたら、それを作ったり演じたり書いたり描いたりした人に届くように「あなたのやってることは好きですよ」と伝えたい。その人が死んでしまったら、「彼(女)は僕の人生に潤いを与えてくれた。出会えてよかった」という話をし続けたい。
言葉にすれば、誰かに届く。届けば、誰かがわかってくれる。
(※)本田美奈子と高校の同級生だったというのが奇妙な因縁を感じさせる。ちなみにこのクラス、菊池陽子(斉藤由貴が主演した「スケバン刑事」にスケバングループの一人として出演)も若くして病に倒れ、宮崎ますみは乳がんにかかるといった具合にけっこう不幸なことが起こる。南野陽子は大丈夫だろうかといつも気になる。
(※※)どういうきっかけかはわからないが、彼女の死後その楽曲からファンになったという人も、少数だが存在する。
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コメント
オーガさん、こんにちは
いろいろと論はありますが、死を不真面目にではなく、かといって真剣にでもなく、きちんと考えることは、人生観を考えることと直結していると思います。
アイドル、もしくは有名人の経験を媒体として我々が認識する感覚は、その凝縮された人生が、すなわちある種の極端な生き方を印象付けるものとなり、「普通に生きることの価値」なんてものを教えてくれているのかな、なんて考えます。
反面教師ではありませんが、浮世があるからこそ、地面にしっかりと足をつけた歩き方が分かる。といったところでしょうか。
さて、話は逸れますが、オーガさんはトラックバックとリンクとを混同されているようです。詳細はココログのヘルプにもありますが、例えば私の書いた記事にトラックバックする場合は、その記事の下のほうにある「トラックバックURL」をコピーして、オーガさんが記事を投稿するページの「相手先のトラックバックURLを入力」というところに貼り付けてから「保存」をクリックしていただければOKなはずです。
投稿: tucker | 2006.10.05 00:33
恥ずかしながら、「相手先のトラックバックURLを入力」に貼り付けるのは「トラックバックURL」でなければいけないところをリンクのURLと同じものを貼っていました。ご指摘ありがとうございます。勉強になりました。
投稿: オーガ | 2006.10.05 03:57