五万節

学校出てから十余年
今じゃネットに入り浸り
空気読まずに叩かれた
そんな生活五万日

学校出てから十余年
今じゃブログを書いている
気分まかせの更新を
サボった回数五万回

学校出てから十余年
今じゃ現場に通ってる
野郎ばかりの客席で
振ったサイリウムが五万本

学校出てから十余年
今じゃしがねぇヲタ暮らし
今日はコンサで明日ハロショ
買った写真が五万枚

(以下考案中。。。)


(注意)
ここから先は、いわゆる“キモイ”文章が続きます。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。また、閲覧中に体調が悪化された場合はただちに閲覧を中止し医師の診察を受けてください。


遅ればせながら、報告。

品川で、

矢島舞美に惚れました。

あーあ、いっちゃった。(≧∇≦)


しっかりしなくちゃいけない、という意思が見えた。
実際のところはあまりしっかりしていなくて、リーダーとして時に頼りなさを感じることもある人らしいが、あの日の彼女は違った。
キューティーカミカミクイーンであるということは、あの運動能力をも凌駕するほど感情や思考もまた“走る”人かもしれないという妄想すら抱かせる。
そういう人がどうであったか、何をしたか、もう一度思い出してもらいたい。

立場上、イベントの成否は彼女にかかっていた。その重圧たるや想像を絶するものだったと思う。
感情に流されていたらできなかったはず。恐らく、あの場でもっともギリギリの状態だったのは彼女だっただろう。
しかし。
矢島舞美は、それをやってのけたのだ。感情を抑えながら別の感情を表情に出してみせるという離れ業で。
すごいよね。アイドルってみんなそんなことができるのか? 超人だよそれは。


こういう場でやっていいのかはさておき、自信を持って“これは俺にしかわからない”と思える表現をするなら、

みんなの矢島舞美

であろうとしていたように思う。
矢島舞美であって矢島舞美でない、自分を囲み見ている者が描いているであろう<矢島舞美>像に忠実であろうとしていたのだとしか、僕には思えない。
その場にいる全員のために、立つ。
いじらしくも思えたし、12歳くらいから中身が成長していない僕には、とても頼れるお姉さんに見えた。真剣に「この人に膝枕されながら頭をなでなでしてもらいたい」と思ったもの。いや、それ12歳じゃないだろ。幼児退行?

つまりあれだ。僕は矢島舞美に感動したのだ。


そんなこんなで、ちょっと今夢中になってる。歌声が、ダンスが、笑顔が、ひと時も頭を離れない。胸が熱くなる。違う意味でもうダメだ(爆)。
ちょっと気を抜くと「舞美舞美舞美舞美」と、お前はフォークダンスでも踊ってるのか状態になる。アホだ。
今までは「写真には[情報]がないから」と写真系のグッズにはほとんどノータッチだったのだが、予算があったら今すぐハロショに飛んでいって売り場にある舞美写真を一通り買っちまいたいくらい。交通費さえないけれど。


自分でも戸惑うほどの心境の変化。
たぶん、まだ落ち着いていないのだ。
反動なのだ、という自覚は持っている。

でもね。
代用でもないし、乗り換えでも気を紛らわしているのでもない。

<みんなの矢島舞美>が、ただただ大好きになった。それだけなんだ。


紺野あさ美が好きで、石村舞波が好きで、村上愛に頼っていた僕だから、しばらくは誰も好きになりたくなかった。あまりにアレじゃん、この流れ。「お前今すぐヲタやめろ。つーか死ね。氏ねじゃなくて死ね」とかいわれそうだなぁ。微妙な気分。
でも、火中にしか栗がないなら、拾うことをためらっちゃいられない。

すまん、舞美。君に何かあったらそれは俺のせいだ。

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Beatitude

昨夜は、今月に入って初めてよく眠れた。


何も解決していない。きっと解決しない。
CDを聴いても、DVDを見ても、胸が痛む。
経験からいって、完治は難しい。
いいたいことは、まだまだある。たぶんこれからも出てくる。
でもね。
背負った荷物は重いけど、降りることはとっくにやめている。そういうのは若者の特権だ。
行く場所も帰る場所も他にはない。歩く以外の選択肢はない。積極的にそれを選び取る。
全部引きずって、それでも生きてやる。


歩くといえば、「歩いてる」はやはり僕にとってはあまりにも直球勝負すぎて“ぬるい”歌だ。直球というか落ちないフォーク。絶好球ではあるんだけど、どうせなら浮き上がってくるような豪速球とかボールが消えるような変化球とか、そういうものに食らいついていきたい。

青春とつきあう、という言葉が降りてきた。
妙に納得した。

青春と人生はイコールではなく、あくまでその一部分(時期)である。
僕たちが関わりを許されるのは彼女たちの一部分(時期であり時間でもある)だ、というこの距離感。非常に大事だと思える。

つきあう、というのも交際するという意味ではなく「今度の週末買い物につきあってよ」みたいな、一人じゃつまんないから軽く相手してよ、という感覚。これも距離感だ。


距離を置く、と冷めるのではない。
思いをこめて、あえて踏みとどまる。
つまり、やせ我慢。
それを誰に強制されるでもなく、自らの意思で選び取る。

自分の気持ちだけじゃやれないんだ、人との関係というのは。


戦うなら 快楽のじゃまする奴と
いのるなら 胸の中の自由さに

夢の数だけなら 負けはしない
キズの数をかぞえたら 十万億
とどけよ Beatitude
カルマにまみれて

(ムーンライダーズ「Beatitude」[1996]作詞・鈴木慶一)

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中年は荒野をめざす

「埋葬」(早川義夫)を聴くことが、僕にとっての“芸能人・村上愛”の葬式になったような気がする。

死んだ人のことは、忘れない。
忘れないまま、生きる者、生きようとする者のために。


ネットで確定事実として語られていることを信じるなら。
火をつけたのは、確かに一部の特殊な行動様式を持つ者かもしれない。
しかし、彼らもまた、ハロプロメンバーを選んだという点で、僕とどこかでつながっている。同じヲタなのだ。
ならば、これは身内の罪でもある。僕自身の罪でもある。
だって、僕にとってヲタとは他の誰かのことではなく、僕のことだから。

一線を越えたかどうかの違い。
それをもって「彼(ら)は自分(たち)とは違う」と非難してしまう人もいる。
自然なことかもしれないが、僕にいわせればそれは能天気なのだ。
自分には理性があるから一線を越えることはない。そう安易に信じ込んで安心してしまっている。
そんなことはないだろう。テレビのニュースを見てごらん。毎日誰かが一線を越えている。昨日まで理性を保っていた人が。
僕たちは安心できるほど理性を保っているだろうか。「This is 運命」がかかった時は? 家族が倒れたと聞いて病院に駆けつける時は? セックスする時は?

彼らは一線を越えた。僕たちとの違いはその一点のみであって、それは僕たちにも起こりうる。

だからあれは、僕にとっては“もしかしたら自分がやっていたかもしれないこと”で、その意識があるのなら、自分がやったのと同じことだ。


今日のステージで、残った7人が、それでも精一杯の努力で笑うのなら。
その笑顔は僕の胸に突き刺さる。無言のうちに僕を責める。

その場から逃げないことが、その笑顔を胸に焼きつけることが、僕が受けるべき罰だ。


そろそろ支度しようかな。

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悲しくてやりきれない

とにかく、何か音楽が聴きたくなって。
さすがに今キューティークイーンを聴いたらそこで崩れてしまうような気がして、昼メシを食うはずの金を持ってレンタル店へ。

一通り目的のものを借りて、ふと目をやった棚にザ・フォーク・クルセダーズのベストが。

あ、そうだ。これがあった。


ひどく落ち込んだ時、無力感にさいなまれた時、気持ちのぶつけどころがどこにもない(どこに求めるのもしっくりこない)時、僕はこの曲を聴く。

気持ちをどこかにぶつけるでもなく、自暴自棄になるでもなく、大げさに悲嘆にくれてみせるでもなく、ただただ途方にくれる。

そんな歌が今の心境にジャストフィット。許されるならばすべての歌詞を書き出したり「もせうpるから急いで覚えて品川で歌おうぜ」と煽りたくなるくらい。さすがに違法行為を堂々とやる気はないが、軽く検索してみたら歌詞を載せてるサイトもMIDIか何かを流してるサイトも見つかったのでそちらでどうぞ。まだ開いてるレンタル店に走るもよし、P2Pで探すもよし。

こういう歌で思う存分“浸る”ことで、少しだけ気分が持ち直したような気がする。
歌っていいね。


あ、うたばん忘れてた。

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近況

驚くほどネタがない。巡回先でいいヒントをもらうこともあるのだが、どうも形になるまでに至らない。
ただ、書かないでいるとどうもエネルギーが余っているようなモヤモヤを感じるし、なんでもいいから書くとスッキリする。やはり僕は(好き勝手なことを好き勝手に好きなだけ、という条件で)書くのが好きなんだな、とつくづく思う。

9月のメロンを最後に現場も行ってない。夏ハロDVDを見て「そういえば俺この公演の後モーニング娘。を生で見てないわ」と驚いたくらいだ。別に在宅に転向したわけではなく、行こうと思う公演がなくてチケットをとっていなかっただけだが。
武道館で3ヶ月ぶりにモーニング娘。を見る。果たして僕はまだモーニング娘。を好きでいるのだろうか。

ハロモニを見ていても心が弾まない。最近あまりにもチャレンジしていないと感じる企画が多すぎるせいなのか、以前はリアルタイム・編集しながら・焼いたDVDと3回見ていたのだが、ここしばらくは1回見れば「もういいや」という気分だ。「なぜ失敗したか? それはチャレンジしたからである」という言葉をある本で読んだが、逆に考えれば失敗しないためにはチャレンジしないというのが有効な手段の一つであって、今はそういう時期なのだろう。とにかく枠を守る。何か面白くて数字も期待できる企画が出てきたとして、枠がなければどうしようもない。我慢すべきところかもしれない。視聴者に我慢を強いる番組というのがアリかどうかは別として。


今クールは珍しくテレビドラマなどというものに興味を引かれている。たまたま「セーラー服と機関銃」の1話冒頭を見てそのまま最後までズルズルいったのがいけなかったか。原作も映画も30分版のドラマもあるのでそこから外れるわけにもいかず、そういう意味ではよく知られている話をその通りにやっているだけなのだが、面白いと思って見ている。
あとは「14才の母」と「鉄板少女アカネ!!」を録画しているが、前者はあまりにも内容が重そうでしかも結末が読めるので見る気になれず、後者はあまりいい評価を聞かないので見るのが怖い(笑)。日本シリーズに熱中して2話の録画忘れたし。

あ、もう一つあった。テレ東で始まった時代劇「逃亡者(のがれもの)おりん」。あまりにも突っ込みどころが多くて、2時間SPだった第1話を見ながら何度「ありえねー!(笑)」が口をついたことか。コメディじゃないのに笑える。これ最強。ちょっと斜めな視点から楽しみたい人にはオススメだ。


さて、と・・・。
℃-uteのイベント当たっちゃったんだが、交通費がありません(泣)。

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重たい話

死んだらどうなる?@「テキトウテキスト」さん。


人間には1秒先のこともわからない。たとえばこの文章だって、最後まで書けるかどうかわからない。書いている最中に心臓発作が起きたり脳で大出血が起きたりということが絶対にないとはいいきれない。生とはそれほど不確かなものだ。
しかし、それを真正面からとらえてしまっては、逆に生きるのが困難になる。二度と目を覚まさないのではないかという恐怖で眠れなくなってしまったら、それが原因で死んでしまう。だから、できるだけそれを考えないようにという防衛機能がはたらく。そうやって人は健康で生きているかぎり死を頭から追い出していられる。


高校生の時に持久走で心臓がオーバーロードして病院に担ぎ込まれたことがある。その後おニャン子クラブのファイナルコンサートで張り切りすぎた時も同じ症状が出たので、今もコンサートに赴く際はどこか命がけの気分がある。
二十代の前半に、真剣に死んでしまいたいと思いつめたことがあり、実際に手首を切ってみた。傷跡はまだ残っていて、キレイにするには保険のきかない手術をするほかないらしい。きっと一生このままだろう。

そんな経験をしているせいか、恐らく人よりは“死”を意識することが多いんじゃないかと思っている。
そういう立場から見ると、日常にも危険は潜んでいる。たとえば、現在住んでいるところは田園地帯なので「稲の生育に悪影響」とかで街灯が少なく、また農道や路地も多いので外を歩く時は注意がいる。CDやDVDや写真集を買うときは地元に書店もCDショップもないため隣の県まで自転車で行くのだが(運転免許を取っておけばよかったと、この町に来て初めて思った)、県境を流れる川にかかる橋は、柵(手すり?)が自転車に乗ると腰より低い程度の高さしかなく、携帯電話でもいじりながら走ろうものなら簡単に転落できる。

死はすぐ隣にいる。そんなことを考えながら生きていると、青封筒が届くたび、「こんな先のコンサートのチケットを取るのはいいが、当日まで生きてる保証はない」なんてことも頭をよぎったりする。だからこそチケットを取ることで「この日までは生きていよう」と思ったりもする。実際、真剣にあるアイドルグループのコンサートに行くことが生きる理由だったこともあった。

死を意識することで、逆にポジティブになれることもある。これは僕が仕事も家庭も持っておらず“社会的責任”というものを背負っていないという特殊な事情もあると思うが、
とりあえず命までは取られない
こう考えることで、(可能性としては)なんでもできる。ブログでバカなことを書いて恥をかくことだってできる。

僕は自分のことしか頭にないので、“自分が死んだら周りの人間はどう思うか”ということは一切気にならない。その反応を僕が見ることはできないのだから、気にしたってどうにもならない。こういう人間をエゴイストというのだろうか。

僕が自分の死を思うときまず考えるのは、
「たとえば自分が明日死んでしまうとして、それまでに、たとえ誰にも届かないとしても誰かに伝えたいことはあるか」
それを伝えるために、僕はキーボードを叩いている。言葉にすれば、誰かがそれを受け取ってくれるだろうと、淡い希望を抱いて。その割に「℃-uteのPVの感想がうまく書けない」で更新をほったらかしにしたりもするのだが、それはそれ。いい加減なことは書きたくないし(けっこう書いてるが、根拠がないか薄いだけで本人は真剣なのだ)、書いたとしても読めばわかるので、納得のいくものを書くには時間がかかる。毎日更新するなんて神業は僕には無理だ。


伝えたいことというのは、言葉にすれば簡単なこと。

俺はここにいる。俺がここにいる。これが俺だ。

僕の書くものは、要約するとすべてこの三つの言葉に尽きる。我ながら自己顕示欲の強さに呆れてしまう。


もしも、あと24時間で人類が滅亡するとしたら。
ありがちなテーゼだが、もしかしたら僕は「ブログを更新する」と答えるかもしれない。
なんかどうでもいいようなバカ話を書いて、「この非常時にこんなバカなことをやってる大バカがいる」と、そんな非常時にネットなんかやってて、あまつさえ僕の文章なんか読んで時間の無駄遣いをしているオタンコナスに笑われて最期を迎えたい。
誰にも見られないとしても、誰かが見ることを想像しただけで笑って死ねそう気がする。

誰かの人生が終わったとき、果たして彼(女)は何を成し何を残したかということが検証される。そこで初めて偉大な業績や非凡な才能を認められる人もいる。有名なところでは宮沢賢治がその一人だ。

そういうものだとはわかっている。生きているかぎり人は何かを成しているものであり、総括されるのが死後になるのは致し方ないという気もする。
死者の業績を称えあたらめて記録しようというのは、ある種の儀式(社会的葬式と仮に名付けてみる)なのかもしれないし、彼(女)をその仕事の中で生きながらえさせることかもしれない。

しかし、賞賛の声が本人に届くことはない。それは悲しい。


死んでしまったことがきっかけで業績が認められなくなってしまった人というのもいる。たとえば岡田有希子だ(※)。死後20年が経った今も“失恋で自殺したアイドル。後を追う若者も多く現れた”というスキャンダラスなイメージは払拭されず、名曲・名盤を多く残している(最後のアルバム「ヴィーナス誕生」よりも“美しい”アルバムを、僕はこれまで聴いたあらゆるジャンルを通じて他に知らない)にも関わらず、それらを虚心に評価しようという試みはなされていない。聴くのはファンだけ(※※)。ファンとそれ以外の人々の双方にとって、意味合いはまったく逆ではあるが“特別な存在”になってしまっている。この状況が改善されるには、あと80年くらい経って、彼女を“特別な存在”と思う人々のすべてが死んでしまうのを待つほかないと思っている。

これもまた悲しい。死してなお、彼女は針の筵に座らされている。死んでいるのに殺され続けている
世の中の人々というのはなんと残酷なことをしているのだろう。

生きている者になら、心から誠意を尽くして詫びればいつかは許されるだろう。
しかし、死んだ者から許されることはない。詫びの言葉さえ聞いてもらえない。
だから死者は丁重に扱われるのだ。
それなのに、死者をまだ殺して平気でいられる者が圧倒的大多数を占めている。


何かを見たり聞いたり食べたり読んだりしてポジティブな感情を抱いたら、それを作ったり演じたり書いたり描いたりした人に届くように「あなたのやってることは好きですよ」と伝えたい。その人が死んでしまったら、「彼(女)は僕の人生に潤いを与えてくれた。出会えてよかった」という話をし続けたい。
言葉にすれば、誰かに届く。届けば、誰かがわかってくれる。

(※)本田美奈子と高校の同級生だったというのが奇妙な因縁を感じさせる。ちなみにこのクラス、菊池陽子(斉藤由貴が主演した「スケバン刑事」にスケバングループの一人として出演)も若くして病に倒れ、宮崎ますみは乳がんにかかるといった具合にけっこう不幸なことが起こる。南野陽子は大丈夫だろうかといつも気になる。

(※※)どういうきっかけかはわからないが、彼女の死後その楽曲からファンになったという人も、少数だが存在する。

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オー何テユー事ナンダロウ

「冬メロンの抽選どうなった?」という連絡が連番予定の相手から来たもので、いそいそと確認。

落選。

工エエェェ(´д`)ェェエエ工
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
工エエェェ(´д`)ェェエエ工

2003年の夏からメロンコンには行ってますが、初の落選。かーなーり凹んでます。夏ツアーで良番引いたのがいけなかったかなぁ。
とにかく、なんとか手配しないと。まさかクリスマスイブに有馬記念をTV観戦してケーキ食って終わりとか寂しい時間を過ごすわけにいかないだろう。

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昨夜見た夢

どこかの体育館。
トイレに入ろうとすると、扉にヒモが掛かっていて、その先は色々細工がしてあり、開けると頭上から洗面器(タライ?)の水が降ってくる、という仕組み。なぜそれがわかったかというと、扉を開けたままセッティングされているからだ(笑)。閉めてやらないと意味ないだろう。
誰がこんなことを、と思って中に目をやると、セーラー服(夏)を着た女子中学生。地元の中学の子(にしてはリボンの色がリアル地元の中学校と違う)のようだ。
ちょっと待てここは男子トイレだよな、と目を丸くしていると、
「いいよ。・・・入って」
いやいいも悪いもここは男子トイレなんだが、と思いながら、水をかぶらないように注意して入り、アサガオ(小便器)の前に立つと、なんとその女子中学生が隣に立ってこちら(といってもナニではなく僕の表情)を見ているではないか! 用を足すどころではない。
「あの・・・そんなに近くにいるとやりづらいなぁ」
「そうなの?」
なんなんだこの子は。

話を聞くと、どうやら彼女(女子1)は同じ学校の子と何かトラブルがあって、意趣返しにこんなイタズラを思いついたらしい。なるほど、体育館ではバレーボールかバスケか何か部活をやっている。女子が。じゃあなんで男子トイレに。男子の姿はどこにも見えない。
そこに別の女子2人が現れる。この女子2および女子3は女子1の同級生なのか同じ部なのか、とにかく仲がいいわけでもないがまったく知らない間柄というわけでもないらしい。
女子2と女子3に事情を説明する俺。聞き終わると女子2(あるいは3)が女子1に「あんたはもう帰りな」と告げる。すると女子1は仕掛けをそのままにして素直に帰る。どうもこの子は何を考えているのかわからない。

そのままトイレの前でボーッとしている俺と女子2と女子3。部活が終わったらしく、体育館から次々と部員が出てきて帰宅していく。その中に5人グループがいて、俺は直感的に「女子1の標的はこの5人だ」と悟る。
5人グループは誰かを探すかのように入れ替わり立ち代りトイレに入っては出ていく。なぜそれがわかるかというと、扉が開けっ放し。

気づけば外はもう暗い。
「君たちもそろそろ帰らないと。送っていくわけにもいかないし」
いやいや送っていけよ俺。
帰っていく2人。何の用があるのか、その場を動かずに見送る僕。我ながら何を考えているのかわからない。

翌朝。起きて階段を下りると、なぜか父が居間で座布団を並べた上に寝ていて、隣の部屋で母が布団を敷いて寝ている。
「何やってんの?」
返事は返ってこない。
「ところでもう8時なんだが、今日は休みかね?」
それを聞いて2人とも起きた(その日はどうやら平日らしい)ものの、特に慌てた様子もない。

飯を食ったか何かした(不明)後で部屋に戻る。どうやら僕は夢の中でも無職らしい。
その前にトイレに入って用を足す。ちなみに小さい方。なかなか止まらない。
ようやく止まって、水を流しながら窓から外を見ると、母が庭の鉢植えに顕微鏡を向けている。しかも接眼レンズを鉢植えに向けて。
「母ちゃん、何を見たいのか知らないがそれじゃ死ぬまでやっても見えないよ」
そんなことを思いながら部屋に戻り、前日のことを回想する。
「もしかしたら女子2と女子3の帰りが遅くなったことで騒ぎになるかもな。まぁそれはそれでいいか」

(ここで目が覚める)

夢なんだからそういうものかもしれないが、全体的にわけがわからない。でも何かあるように思えてならない。こういう映画のような夢を見るときはたいてい体育館が舞台だし、自宅が出てくると現在のものではなく、5歳から二十数年住んでいた家なのだ。
夢による精神分析に詳しい人がいたらどんな意味があるのか聞いてみたいものだ。あ、もしも「この夢にはお前のドス黒い欲望が秘められている」ということだったら、それは公にされたくないのでコッソリ教えてください(笑)。

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ヲタクの風邪の治し方

先月の終わりから体調を崩してしまい、寝込む生活。どうも初めはただの(とはいえ生まれて初めての)夏バテだったらしいのだが、回復したと思ったらいきなり風邪をひいてしまい、なかなか熱が下がらずにただただ寝る。おまけに持病の喘息まで再発。

そんな生活をしている間にも時は流れ社会は動くもので、待ちに待った電話がやってきた。

ご予約のDVDが入荷しました

℃-uteのDVDキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

一刻も早く受け取りに行かねば。しかし体温は37℃前後を行ったり来たり。
一か八か。

まず解熱剤を飲む。次に某サイトでメロンライブのセットリストを入手し、持ってる限りの音源をリスト順に並べてケータイに放り込む。それを聴きながら自転車を走らせる。サイリウムの仕入れやら腕時計の電池交換やらついでの用事は色々あったから、ただでさえ長い走行距離がまた伸びる。

いやー汗が出る出る。気温も湿度もそれほど高くなかったのに、タオル2枚(※)がグショグショになるほど。3時間ほど走って帰宅した頃にはすっかり元気になりましたとさ。


風邪の方はなんとかなりそうだが、喘息はけっこう長引くと思う。メロンライブまでに落ち着くことはないだろう。10日夜の部で、前の方のブロック(には行けると思うんだよなぁ、遅れなければ)でしきりに咳き込んでる奴がいたら、それは僕かもしれない。モッシュのふりして襲いかからないように。リアル病人をいじめないでくれ。


(※)巷で話題の青いタオルハンカチを愛用しているのだが、こちとらもう10年近く使っているのだからパクリ呼ばわりは心外である。あの高校球児が「ハンカチ王子」なら僕は「ハンカチ魔王」くらいの呼ばれ方をしてもいいだろう。ちなみに僕の愛用品はローソンで売ってる「おしぼりタオル」で、これはたぶん生産中止にはならないだろう。

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mixiはじめました

興味を持ってはいたのだけれど、誰も招待してくれなくてねぇ(泣)。

数少ないヲタもだちからやっと招待されましたと。今のところはほとんど登録だけしましたって段階。

どう活用したらいいのかピンとこない。適当なコミュニティを見つけて参加するところから始めればいいのだろうけど、どうもノリがファンサイトっぽくてなじめそうにない。

馴れ合いは嫌いじゃないが、自分からアクションを起こすのは気後れしてしまう。単なる根性なしなのか、はたまた「俺様とコミュニケーションとりたければお前から声かけてこいや」という傲慢な態度なのか。

なんか苦労しそうだ・・・。

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おもしれー

キッズgooはじかれサイト同盟というHPを見つけました。

試しに表とここのURLを入れて検索してみると、なんと、

表がアウトでこっちはセーフ。なんでやねん。

これがいわゆる“見せてもいい裏”でございます。んなわきゃーない。

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準備中。。。

明日(もう今日か)のSSA夜公演に向けて色々と準備しているわけなんですが。

サイリウムはどの色を何本持っていくか、ヲタくさいのは払拭できないにせよ何を着ていくか、往復の電車で読む本は何にするか、・・・等々。
考えて、買うべきものは買って。サイリウムだって僕の場合は持たずに振れる道具(謎)を使うのでセッティングもする。

いつも思うのだが、ホントに準備するのって楽しい。いわゆる“遠足の前日”気分で気持ちが高ぶって眠れないこともあるくらいだ。

コンサートの準備より面白いコンサートってのは滅多にあるもんじゃない。

本気でそんなことを思ったりもする。

恋サル見たらハロモニまで寝る。今日は珍しく眠いから寝られそうだ。

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4月8日に生まれて

いやー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(感慨)。

20年ですよ、20年。

長い。ただただ長い。ニキビ面の高校生が中年太りのオッサンになるのだから、“短いようで”なんてことは冗談でもいえない。“長いようで短い”とも思わない。単純に長い。ひたすら長い。


四谷四丁目交差点には、いつもよりも(少なくとも昨年よりは)多くの人。50人前後はいただろうか。
ちょうど12時頃から雨が降り出し、風も強くなり、そんな中での献花。
旧交を温める。といっても基本的にはおとなしくしている。あまり知った顔がいないというのもあるが、“アイドル好き”で現役のハロプロヲタである僕と“彼女のファン”である人たちとではどうしても価値観の相違があり、それを表に出してぶつけ合うのにふさわしい場所ではないからだ。

生物としての僕は1969年の12月某日に生まれているのだが、人生の主体としての僕は、間違いなく1986年4月8日生まれ。

20年という節目の年だから、ついつい自分の20年、というより20年前の自分を振り返る。まさか自分が20年後に無職のボケボケ人生を歩んでいるとは夢にも思わなかった高校2年生の自分。クラスメイト。好きだった女の子。

端正な顔立ちに無邪気な笑顔、成績優秀で運動部でも活躍し、後に卒業式でクラス総代に選ばれるほど人望があった、まさに「それなんてエロゲ?」というくらいの高嶺の花だったあの子の気を引くために、勉強も運動もパッとせず容姿にも恵まれず、人望など「神保町ならよく行くけど?」だった僕は何をしていただろう。


思い出した。
大きな喪失を抱えて生まれた僕が、その喪失から生み出したもので得た、もっとも美しい思い出。
あの子が僕だけに向けた笑顔。その時の喜び。

この思い出だけは汚せない。汚してはならない。そんな人生をやってはいけない。


自分の原点を再発見した。そして、それを正確に把握しなかった(できなかった)がために実に20年もの間回り道をして、あげく道に迷っていたこともわかった。
容易ではないが、本来進まなければならなかった道へ戻ることを考えようと思う。

人は思い出だけでは生きられない。しかし思い出は時に力となる。


今日はいい日だった。
明日からはまたおバカなハロプロヲタに戻る。

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「萌え」の考察・2

現在では、萌えとは性欲や性衝動の一種であると解釈されている節がある。確かに前述の“彼”も“学校指定のジャージにヘルメットで自転車通学する地方在住の女子中学生”に対して性欲を抱いていないわけではないらしい。

しかし、それでは説明できないことがある。
彼は“学校指定のジャージにヘルメットで自転車通学する地方在住の女子中学生”だけでなく、「網走番外地」を見れば高倉健に萌え、「宇宙刑事ギャバン」を見れば大葉健二に萌え、「機動戦士Ζガンダム」を見ればヘンケン艦長に萌えるというのである。いい忘れたが彼はヘテロセクシャルである。

なんでもかんでも“萌え”って言えばいいというものではないと思うが、彼が言うには間違いなく“萌え”なのだそうだ。念のため確認してみたが性欲は感じていないと言う。

この疑問に解決の糸口が見えた。
きっかけは、先日終了した冬季オリンピックである。現在彼はカーリング女子チームにハマっている。

はじめ「写真で見るとけっこう美人揃いなんだけど、中継見るとそうでもないよね」と言っていたのだが、それでも予選通過できるかどうかということになってから興味を取り戻したらしく、また中継を見ているうちにカーリングそのものの魅力に気づいたらしい。今では、「いやー、予選通過できなかったけど面白かったなぁ。スイス戦で5点差から追い上げていくところは燃えたよ」とすっかり夢中になっている。そして、「本橋麻里もいいけど小野寺歩も林弓枝も萌えるなぁ。寺田桜子も捨てがたい」と言いつつ、写真やら動画やらをネットで収集したり、オリンピック特集番組を録画してカーリングの部分だけ切り出したりしているようだ。面倒だし回線細いからうpらないぞ。・・・いや、これは彼が言っていたのだ。ゴホンゴホン。

カーリング女子チームは、彼にとって萌えの対象ではなかった。
しかし、競技の魅力を知り、試合を見て、それに感銘(心に刻みつけて忘れないこと。また、忘れられないほど深く感動すること。「広辞苑 第五版」)を受けたことにより、萌えの対象になったのである。感動が萌えを喚起したのだ。


もしかしたら、

<仮説4>萌えとは感動の一形態もしくは変種である。

といえるのかもしれない。高倉健や大葉健二のカッコよさにシビレるというのは感動の一種だろうし、ヘンケン艦長の無骨さや不器用さ、惚れた女の盾になって死んでいく姿にも感じるところがあるのだろう。それらが彼に“萌え”の感情を抱かせたのではないだろうか。
“学校指定のジャージにヘルメットで自転車通学する地方在住の女子中学生”に対しても、純朴そうな風情に感動しているのかもしれないし、自分の“体験できなかった青春の甘い思い出”に思いをはせて(彼は小学校高学年~中学校時代に対女性関係でかなり辛い思いをしたらしく、「だから未だにそれくらいの年の子に執着してるのかもな」と告白してくれた)胸を震わせているのかもしれない。あるいは俗世間の穢れを知らない(ように見える)姿に癒されているのかもしれない。ともかく何らかの感動がそこにはあるように思える。

一形態というのは極端かもしれないが、控えめにいっても、感動によって喚起されることがある、ということはいえるのではないだろうか。

僕が「レイボーピンク」や“重ピンク、こはっピンク”に萌えないのもこれで説明できそうだ。
三人祭や他の(過去の)アイドルなど、すでに体験したものとの類似点を見つけてしまったために、感動することがなかったからだ。


僕が考える“萌え”の定義(についての仮説)は以上である。少なくとも僕は、これらの仮説をもってたいていの“萌え”は説明できると思っている。
できなくてもかまわない。むしろその方がいい。「いや、これでは俺の萌えが説明できない」と思う人がいて、今度はその人が考え、新たな仮説を立てて検証していく。それだけの話であり、そうして定説が形作られるのであって、それがいいのだ。


感動は今やビジネスである。セカチューや冬ソナ、最近では「男たちのYAMATO」に代表される“泣ける”に拮抗する新たな市場となっているのもうなずける話ではある。

メディアが躍起になっている“感動の(押し付けがましい)提供”にウンザリしている僕のような人間は、“萌えの提供”にも懐疑的でいるのが正しい姿だと思っている。

据え膳をただ食らっているような怠惰な姿勢では、萌えも感動も薄っぺらいものしか得られないと思うのだ。

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「萌え」の考察・1

「レインボーピンク」に、“重ピンク、こはっピンク”に萌えるという人が多いようだ。僕は萌えないのだけど。
この差はどこからくるのか。いい機会なので、“萌え”について考えてみた。
あくまでも僕が勝手に考えたものではあるが、“萌えとは何か”を考える人の一助になれば幸いである。

まずは表で軽く触れたときに書いたものを引用。

萌えというものは受け手が勝手に見出すものであって送り手に提供されるものではない。 何に萌えるか、というのは、送り手の出した情報のどこををどう受け止めるか、ということでもあるので、それは受け手の自由にさせていただきたい。

つまり、
<仮説1>情報の受信者が発信者または情報そのものに対し、時に奇異に映るほどの高い価値を与える行為である。

主体はあくまでも受け手だと考える。そうでなければ、誰かが発信したわけではないものに萌える(特定の衣服やそれに準じるものを身に着けた人物に抱く、フェティシズムの一種であるものはこれに含まれる)という感覚は説明できない。

そしてもう一つ。

<仮説2>その感情は恋愛や思慕の感情と非常によく似ているが、その思いが報われることはない、あるいはそれを期待しない“永遠の片思い”である。

また、人物でないものに萌えるということもあるが、対象が人物である場合、概して相手の人格と直接には関係がなく、五感で感じ取れるものについての評価としての感情である。対象の人となりを知って萌えなくなるということもある。
<仮説3>初期段階においては、対象の実像は考慮しない。


例を挙げてみよう。
ここに、学校指定のジャージにヘルメットで自転車通学する地方在住の女子中学生に萌える一人のヲタク(三十代後半・男性)がいるとする(ハイそこツッコミ禁止)。

ジャージもヘルメットも自転車通学も、さらに地方在住であることも女子中学生であることも、校則や社会通念、成長段階、国家のルールといったやむを得ない事情にしたがっているだけのことであって、情報ではない。しかし彼はそれらを情報として受け取り、非常に高い価値を見出している<仮説1>。

三十代後半の男性と女子中学生には恋愛の前段階としての交流がなく、交流するための接点もない(と思っている)。したがって恋愛を成立させることは難しい。また彼自身、積極的に接点を築き交流を持とうという考えを持っていないことから推測するに、恋愛をしようと強く思ってはいない<仮説2>。

彼は女子中学生を個人としては認識していない。彼にとって重要なのは“地方在住の”“女子中学生”であり、それが“学校指定のジャージにヘルメットで”“自転車通学する”ことである。また、どういう人格を持っているのかを(この段階では)考慮しない<仮説3>。


・・・都合のいい例を出しただけのように思われるかもしれない。半分は正解だが(笑)、もう半分は大マジメである。皆さんも自身や周りのヲタもだちに当てはめて考えると納得していただけるのではないかと思う。


<つづく>

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ごあいさつ

あけおめ。ことよろ。


DVDが焼けない問題はまだ解決していない。やっぱりドライブ側の問題だろうか。先日書いた通り買い換える金がないので途方に暮れている。金杯で勝負でもしないとダメだろうか。自信ない。有馬記念外したし。


初めてPRIDE男祭りを最初から最後まで見た。トイレ行ってる間に終わってたヒョードルvsズール戦を除いて(笑)。小川直也の入場は泣けた。

「小川は負けても傷つかない(プロレスは“いい負け方”をするのも芸のうちなのだ)が、吉田が負けたらPRIDEそのものに傷がつく。だから吉田が勝つだろう」という予想通りの結果だったが、地味なようで熱のこもった一戦だったと思う。骨が折れても試合を続けたり最後までタップアウトしなかったりと、小川の意地が光った。根は真面目な人だからね。さすがに普段鍛えてるだけあってマイクパフォーマンスは圧勝。非情な勝負に徹した吉田も気持ちが伝わるいい仕事をした。どちらかが相手を徹底的に“潰す”のではなく、互いの持ち味を存分に見せた(という意味では非常に“プロレス的”だった)いい試合だったと思う。

紅白?去年は中止でしょ?(笑)
この記事の写真を見るに、華やかなステージになったことと思う。モ板(狼)でもそれほど大きな騒ぎになっていないということは、楽しみにしていた人はそれなりに満足できたのではないかと思っている。見ていない僕さえもこの写真1枚でけっこう満足したのだから。
ここまでやる(やった)からには2006年以降呼ばれることはないかもしれないという気もしたので見ようかという気分にも少しだけなったのだが、そこは初志貫徹ということで。それこそ小川直也ではないが、意地を通すことは必要だと思えるのだ。


新年の抱負が実現できたことはないので、それを語るのは無駄だからやめておく。まぁ適当にのんびり生きていければいいかなーとも思うが、更新の妨げにならない程度に忙しくなった方が、生活に充実感が持てて気持ちいいと思う。仕事が持てた方が望ましいとは思うが、何をしたらよいものかが今一つ見えてこない。ただそろそろ“充電”も“人生のやり直し”もある程度できたんじゃないかという気はしている。


(追記)
年が明けたらSmartVision(NECのTV録画・視聴ソフト)の番組表が消えて、その後まったく取得できないのだが、これはいったいどうしたことだろう。なんか再セットアップしてからあちこちのパフォーマンスが悪いなぁ。

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凹む・つづき

昨日書かなかったことその一。僕はナルシシストでもある。ただし鏡に向かって「よし、今日もかわいい!」なんてことはやらない。

昨日書かなかったことその二。PCにバンドルされていたDVD MovieWriterでもエラーが出るのを確認し、エラーコードを記録して「こんなん出たけどどーすりゃよかんべか」というメールをユーリードシステムズ株式会社のサポートに出しておいた。

なんとその返事が早くも来た。ちょっといい誕生日プレゼントになった。ユーリードえらい。ユーリード最高。オーサリングソフト買うならユーリード。ビデオ編集ソフトもユーリード。ちなみに僕はこの会社の関係者ではない。

「まず弊社HPからアップデートプログラムをダウンロードし、アップデートしてください」

ふむふむ。ダウンロードしてインストールして、、そんでもって書き込みテストっと。・・・ダメみたい。

「それでも解決しない場合は“SPTI”というSCSIおよびIDEデバイス汎用インターフェースが壊れている可能性があります。
その場合、誠に恐れ入りますがWindowsの再インストールを実施していただくほかありません」

なーるほど。インターフェースが壊れてりゃ、そりゃ周辺機器がFaultをWriteすることもあるだろう。

っておい。再インストールって。それはNEC製でいうところの“再セットアップ”ですかそうですか。やったことないぞ。

そうなるとデータのバックアップをとらなきゃいけないわけで。DVDドライブが不調なのだからDVD-RAMに退避させるわけにもいかず、さりとて2台ある外付けHDDは残り容量が少ないから、これも退避は不可能。


どうやら買わなきゃいけないのはDVDドライブじゃなくHDDの模様。IEEE1394接続ができる外付けモデルが安く出てればいいのだが、なければUSBカード増設だ。

それはそれでいいのだが、面倒な作業は増えるし、これで問題が解決すればいいが「やっぱりDVDドライブが原因かも」となっても、もう予算はない。

バクチだなこりゃ。

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凹む

自分でいうのも気持ち悪いが、僕はロマンチシストである。それもそこそこ重症の。
なので、口では「そんなもん喜ぶほど若くない」と言いつつ、自分の誕生日というのをけっこう大切に思っていて、何か特別なことはないものかと毎年期待している。

有馬記念がぶつかりでもしない限り何事もなく過ぎていく(ぶつかった年には、最近だとグラスワンダーが復活したりメジロパーマーが逃げ切ったり何かしら起こる)のだが、今年は特別なことがありそうだ。悪い意味で。

うちのNEC製VF700/4DというPCのUSBポートにはPanasonicのLF-D560JDというDVDマルチドライブがつながっている。保田圭がモーニング娘。を卒業した翌日に秋葉原の某有名店で同時に買ったものだ。

今年の夏くらいからDVD-Rへの書き込みがエラーで終了することが多くなり(メディアはドライブのマニュアルで推奨されている有名メーカーの国産品)、また秋口あたりから書き込み中にガタガタ異音を発することが多くなった。

そして、昨日からは100%エラー終了するようになった。PCに付属しているオーサリング&ライティングソフトではバッファアンダーエラーが頻発するので、いったんISOファイルを作ってDVD Decrypterで書き込むようにしていたのだが、こんなエラーメッセージとともに終了すること3枚連続。メディアのストックが切れたのでこれ以上試せない。

Periphery Device Write Fault.

Periphery Deviceとは周辺機器を指すらしい。この場合はドライブのことだろう。それがFaultをWriteするということだから、ドライブに何かあったようだ。少なくともアプリケーションの不具合ではないだろう。他に考えられるのはHDDの空き容量だが、17GB空いているから作業領域に困るということはないはずだ。
さすがにおよそ1年半の間に少なく見積もっても200枚は焼いているので、限界がきてもおかしくはないだろうと思う。

買い替えるのが解決への近道だろう(それしかない?)。メーカー補償は切れているものの販売店の独自補償が残っているので修理は(買った時の金額まで)無料だが、修理に出して戻ってくるのをのほほんと待てるほどHDDに余裕がない。だから結局買うしかないのだが、懐具合が心細い。

有馬記念を当てていれば少しは余裕もあったのだが、三連複を買うならディープインパクトの1頭軸にすればよかったものを、デルタブルースを加えた2頭軸にしちまっていたのだ。おまけに25日はメロン記念日のコンサートがあったので、グッズ代だの交通費だの夕食代だのでけっこう散財した。ちなみに客席でヘルメットはかぶらなかったが、オープンフィンガーグローブは非常に役に立った。1曲目から天井をバコバコ殴っていったのに「なんともないぜ!」である。

それでもまだマイルCS・JC・阪神JFと3週連続で的中した儲けは残っているのだが、カートリッジつきDVD-RAMが使えて、しかも(先のことを考えて)片面2層メディアに対応できるものをと考えると予算が足りない。

SPAT4の権利が消えないように東京大賞典は買いたかったし、金杯も久々に参加したかった。というか、いい加減カメラつき携帯電話に機種変更しようと機種まで決めていたのに(今使っているのは、シンボリクリスエスが最初に有馬を勝った日に、タップダンスシチー抜けで外してヤケ起こした挙句に機種変更したものだから、もう3年も使っている)。馬券は100円から買えるのだからまだいいが、携帯はなぁ・・・飯田さんのアルバムもバリバリ教室のDVDもまだ買ってないし。


なんかもう、ろくなことにならないことが決定したかのような朝ですわ。ヤケクソで寝る。

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バタバタしました

姉のアパートから帰ってきました。ボーナスで新しくPCとプリンタを買ったので、その接続とセットアップに駆り出されたわけです。

実はその用事でおよそ一週間の間に3回も出かけることになったのです。

そもそも秋頃に「Officeがインストールできない」という電話が入ったのが始まりでした。その時姉が使っていたPC(以下旧PC)というのが確か1999年頃に買ったもので、メモリが64MBでHDD容量が8GB(だったような)。何かの都合でOSをWin98から2000にアップグレードして使っていたわけですから、Officeが入るような空き容量があるわけはない。

「あー、それはもう買い換えるしかないね」
というわけで機種を決め、ついでにプリンタも買い換えるというのでそれも決め、姉のボーナスが入った直後の日曜日に秋葉原へ赴いたわけです。

秋葉原だけでいくつもの店舗を持つ有名店(僕自身PCを買う時はここを利用。現在使っているデスクトップも、その前に使っていた中古ノートもここの“○号店”で買った)へ直行。
まずは旧PCとプリンタを買取カウンターへ出し、査定の間に売り場へ。メモリ増設やら何やらまで含めて価格を出してもらい、いざ会計となった時に第一の事件勃発。

「申し訳ありません。確認したところ在庫が切れてます

先に言えよ。

店に入ってから1時間くらい経ってるんですけど。つーか持って帰って即座に使えるように旧PCは売っちゃったんだし、そもそもそのために俺は片道1時間半かけて電車で来て、姉と母(別件で前日に姉のところに来たついでに一泊して手伝い)は混んでる道を車で来た(おかげで30分待たされた)んですけど。

しかたないので配送の手配だけしてスゴスゴ引き上げました。帰りに寄ったファミレスで3000円分くらいヤケ食いしましたよ、ええ。


「金曜にお届けします」と連絡が入ったというので、MXテレビで「ガンダム」見るのを泣く泣くあきらめて(間の悪いことに「ジオンの脅威」だったわけで。2chで「ジーク・ジオン!」を実況したかった。しくしく)再び姉の元へ。待つことしばし、宅配便のおじさんが持ってきてくれました。PC本体とモニター。

あのー、プリンタも一緒に配送してくれるよう日曜の段階で頼んだんですけど。

すぐさま店に電話。

「申し訳ありません。こちらの発注ミスです

まぁとにかくPCだけでもセットアップしましょうや、と開梱。

あのー、頼んだのと違うカラーのが来ちゃってるんですけど。

そりゃあもう必死で姉をなだめました。ここでキレられて「返品だ!」とか言おうものなら台無しなので。


そしてようやくプリンタが届き、すべてのセットアップが終了したわけですけど、まぁ店もボーナス直後の日曜で混雑していたし、その後も不幸な偶然がこれ以上ないくらいに重なったのでしょうが、さすがに疲れました(苦笑)。


教訓。
PC買うなら平日に(笑)。

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あとがき風のもの

一応「大長文」シリーズはこれで一区切りです。とはいえまだまだ資料の蒐集は続けています(知識が増えていくのは単純に楽しくてしかたありません)ので機会があったらまた書くかもしれません。どうしてもうまく織り込めなかったので入れるのをやめた文言もありますし。

ただ今すぐ書けと言われてもイヤです。
疲れるんですよものすごく。ただ好き勝手なことを並べ立てるだけなら気楽なのですが、少しでも文章に説得力を持たせようと資料を集めたり出典を確認したりする煩雑な作業がついて回ったものですから、更新しようとFirefoxとTeraPadを立ち上げるだけで胃が痛くなったり気分が悪くなったりで、途中でやめようかと思ったことも何度かありました。つくづく面倒なことに首を突っ込んでしまったと思っています。テーマがテーマだったせいか文章も堅苦しいものになってしまい、書くにせよ読むにせよ軽妙な文章が大好きな身としてはストレスを感じながらの作業となりました。

資料もファンサイト、ブログ、新聞や雑誌の記事、社会学やら宗教学やら哲学やらの入門書や学術書と多岐にわたり、読むだけで頭が痛くなるような代物もありました。文章書くのにこれだけの資料を使ったことは仕事でもありませんでしたよ。一文にもならないのに何をやっているんでしょう。我ながらバカですね。

かつて友人に「ペンを持つと雄弁になるよね」と厳しい一言を投げかけられたことがあります。まったくもってその通りで、考えをまとめるのに時間がかかるのと気が小さいのとで、リアルではよほど親しい間柄でないと思ったことの半分も口には出せないのですが、ネットでは思ったことを吐き出さずにはいられないのです。典型的な“ネット番長”ですね。

今こそが発言のタイミングであり、ここで意思表示することには何らかの意味がある。そう強く思い込まなければ挫折していたでしょう。資料を探しに書店に行くとうまい具合にいいものが見つかったり、版元品切の本がネット通販で見つかったり、たまたま読んだ新聞や雑誌の記事から大きなヒントを得られたりしたことを考えると、やはりタイミングが合っていたのだと思いますし、何か運命的なものまで感じています。


全部読んでくださった方っていらっしゃるんでしょうかね?もしいらっしゃるのでしたら、まずは謝ります。長くなってしまって申し訳ありませんでした。書きたいことが次から次へと出てきて、しかもそれをほとんど全部書いてしまわないと気がすまなくて、要点だけを短くまとめることができなかった僕の能力のなさが主な原因です。

そして、ありがとうございました。


では、また適当なことを好き放題書き飛ばすブログに戻すことにします。

ハロモニまで寝る。

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大長文(10)「ストップ・ザ・<マナー>ファッショ」

マナーというものがなぜ存在するかというと、文化人と野蛮人、敵と味方を峻別するためのものではないかと思っている。食事の際にナイフとフォークの使い方がわからなかったり音を立ててスープを飲んだりする者は野蛮人であり、他国の文化を尊重しない人間や国家とは友好関係を結べないということだ。

そう、文化だ。
マナーと文化は密接な関係がある。文化なくしてマナーなし、といってもいいだろう。“私(たち)はあなた(がた)の文化を理解し尊重しています”ということを相手に示すのがマナーではないだろうか。

では聞こう。

ハロプロのコンサート、その客席における文化とは何ぞや。

この答えを持たないのにマナーを語ったところで、説得力に欠けるだろう。
僕も自信を持って答えることはできない。したがって、本当は僕に客席でのマナーを語る資格はない。

マナーを守らない者は野蛮人であり、敵である。
では聞こう。同じ者(たち)に興味や関心や好意的な感情を持ち、同じ場所に集う者のなかに“敵”を想定することは正しいのだろうか。そういう行為は三十数年前に“内ゲバ”と呼ばれたものではないだろうか。

集団内部での思想的対立と抗争は、集団そのものを自壊させる。かろうじて自壊を免れ、踏みとどまっているのは“人類”という集団くらいのものだろう。
分裂できればいいのだが、幸か不幸か“観客席”というスペースは一つしかない。対立があっても、他のどこかへ行くことはできないのだ。それこそ、殺し合いをしながらも地球から出ていけずにいる人類のように。

「マナーを無視する客には我慢できない」でも「マナーマナーってうるさいのがうっとうしい」でも、結果的にますます客が減る。この結末は誰も望まない。
態度の悪い者はいなくなってくれてかまわない、という言いぐさは、方向性の違いはあっても自分勝手であることに変わりはない。そういう者こそいなくなればいい。


非群集心理的集団に属する人の言葉には「なぜこんなことをするのでしょう」「やめさせるにはどうすればいいのでしょう」というものが多く見受けられる。問題提起といえば格好はつくが、“なぜ彼らはそんな行動をとるのか”を考え、想像し、時には直接聞いてなんとか理解しようという姿勢、さらには“微力ながら自分でなんとかしよう”という姿勢が、それはもう見事なくらいすっぽりと抜け落ちている。だから他人の心に届く言葉にならない。

少しは自分で考えて、行動してみたらどうなんでしょうかね。

相手を理解しようとせず、解答を他人任せにし、行動もしない人の言葉が誰を説得できるのだろう。


お互いにもっと歩み寄って、“共感”を試みるべきだと思う
最近は共感と同感が混同されて使われているが、この二つには明らかな差がある。
同感とは「そうだそうだそうだまったくその通り」であり、共感とは“そういう考え方もある”“そういう人もいる”と理解し、認め、受け入れること。それが正しいと思っても思わなくてもいい。「君の考えは理解した。君がそういう考えを持つことを否定はしない。だがその考えは間違っていると僕は思うから反対する」でもいいのだ。


同感しあう者たちだけで集まったところで、排他的で非民主的なものに堕するだけ。ファッショを生むと断言してもいい。

あなたの理想の実現のためにあなたがもっとも必要とする人、そのために対話し説得し仲間にしなければならない人は、あなたを不快にさせるその人なのだ。

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大長文(9)「足りないもの」

ひとつ、疑問があるのだ。
以前書いたと思うが、僕はハロプロのコンサートを一種の“お祭り”と捉えていて、そこでは日常での規範を過度に適用するべきではないと考えている。
そういう“お祭り騒ぎ”を快く思わない人たちがいるのだけれど、お祭り騒ぎになるのはそこがお祭りの会場だからであって、それを否定するということは、コンサートをお祭りではないと捉えていると想像する。しかし、では彼らがどう捉えているかという話を聞いたことがない。

恐らくはどこかで表明されているのを僕が見落としているだけだとは思うが、もしも“日常の延長”と考えているのなら、よほど楽しく満ち足りた日常を送っているのならともかく、そうでないにも関わらずそこに囚われ続けているのは寂しいというか夢のない話だと感じる。
むしろ限定された時間と空間でお祭り騒ぎをして、終わったら日常に戻っていくという形の方が精神的に健全な姿だと思うのだが、どうだろう。


マナーを遵守する(できる)というのは、それだけで一種のステータスである。
だが、ステータスとそれへのこだわりをいっとき忘れようというのがハロプロの、もしかしたらつんく♂氏にとっての重要なテーゼではないかと思う。「LOVEマシーン」があれほど支持されたのは、そのテーゼが時代の閉塞感を打ち破るものとして有効だったからだろう。そしてそれは今でも、というより今の方がより有効かもしれない。ただすでに「LOVEマシーン」というのは過去の曲なので、新しい形で再び提示されるべきだと思っているし、その時を待っている。
僕を含め、それぞれの状況でくすぶっている“負け組”の心を弾ませるものを、まだまだハロプロもつんく♂氏も提供できると思うのだ。

閑話休題。
実は根本的な部分でのコンセンサスがとれていないのではないだろうか。マナーを守れというが守るべきマナーはどこに存在するのか、ということだ。

“常識の範囲内”といったところで、実はそれは共通認識ではなく、人それぞれの育った環境、受けた教育(学歴ではない)、得た情報によって異なる。それらすべてを含めて“世代”といってもいいだろう。
千差万別、十人十色なのだ。でなければジェネレーションギャップという言葉が一般的に広く伝わり、使われることはないだろう。

たとえば、他人のマナー違反を指摘して恥をかかせないのもマナーである。昔の日本人は、恥をかかされたら死んでいたのだから。

そもそも、ヨソで使われているものを持ってきてそれで足れりとするのはずいぶんとお気楽で雑でいい加減で安易で手抜きではないだろうか。

ギャップを埋め、すり合わせてコンセンサスをとろうというのなら悪い話ではないが、急いでやろうとしてしまうのは乱暴だ。現在色々な場所にあるマナーというのは、長い時間をかけて、それこそ何代にもわたって考えられ、提唱され、取捨選択されたうえにできあがったものではないだろうか。
本気でやろうというのなら“自分が生きている間にできるのはせいぜい道筋をつけるところまで。後は次以降の世代に託す”くらいの意識でちょうどいいだろう。ハロプロにはその程度の余裕を持つことを許す強さがあると思っている。さすがに100年かかる(そうなっても不思議はない)となればどうなるかはわからないが、100年後のアイドルとそのファンのために何かを残す作業というのも美しい営みだと思う。

僕たちの世代がそういう作業をしてこなかったがために現在の状況を呼んでいるのであれば申し訳ないと思う。ただ弁解させてもらえるなら、僕たちとそれより上の世代が中心となって客席で遊んでいた時代は、まだ“暗黙の了解”が通用していたのだ。だから、実はまだ通用すると信じている部分もある。

あなたに自由があるように、他人にも自由がある。
あなたの自由を誰かが制限することが許せないなら、あなたが誰かの自由を制限することも許してはいけない。

これだけで済む話だと思うだが、この程度のことも理解できない(しようとしない)人間が現実に存在するというのが、21世紀も5年が過ぎようとしている今という時代なのだろうと思う。残念な話だが。

(追記)
なぜ理解できないのかという問題については、“生まれた時から社会に自由があったため「なぜ自由であるのか」を考えたことがないから”という仮説を持っている。

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大長文(8)「それで理想は果たせるの?」

マナーの悪い客が減ればライトユーザーが来やすい雰囲気になるというのも、それで観客数が増えるというのも単なる楽観論、理想論であって、思い込みだと断言できる。

一度来なくなった客は戻ってこない。そして興味を持っていない(失った)人は絶対に来ない。僕だって興味のないアーティストの公演に行くことはないし、それまでにどれだけ熱中していても、興味がなくなったら二度と行かない。当然の話だろう。まさか“みんな心の底ではハロプロに興味があって、機会があればコンサートに行きたいと思っている”なんて考えているわけではないでしょう?

来る人は何があっても来る。来ない人はどんな理由をつけてでも絶対に来ない。“生で見たい”という欲求を果たすメリットとそれに付随するデメリットを比較して、前者が勝った人が会場に足を運ぶ。それだけの話だと思う。
初めて来る人はデメリットがあることを知らないのでは、そもそもデメリットがあることは間違っていないのかという反論はあるだろう。しかし、未知の場所で未知の体験をしようというのは“何が起こるかわからない”のだから、それを想像もしなければ対策を講じもしないというのは不用意ではないのだろうか。たとえば海外旅行に行くとき、現地の通貨や言語や慣習、日本大使館の場所、ホテルや商店で日本語は通じるか、治安はいいか、街の中に危険な場所はないか、紛争は起きていないか等、色々と下調べをするではないか。

もしかしたら「初めてハロプロのコンサートを見る人のために」なんてサイトなりビラなりでも作って広く啓蒙していく必要もあるかもしれないのが現状なのだ。それは“たかがコンサートに行くくらいのことで心の準備まで必要なのか”というネガティブな反応を喚起することになるのかもしれないが、現実的にそうしないから問題になるという面もあるのだから、理想を口にするだけで事態を放置したり対処の方向を間違えたりするのではなく、現実を虚心に見つめ、それに即した対応をしていくべきではなかろうか。僕はそこまで他人に優しくはないのでやる気が起きないのだが、誰かやりませんかね。

今まで来なかった人が来るようになるには、これも様々な要因があるだろう。受け手送り手の別を問わず、誰かが努力してどうにかなることでもない場合もある。ただ、それでも努力は続けなければいけない。どんな努力が実を結ぶのかはわからないのだから。

“[演者に魅力がなくなった(と感じられている)]という話は反感を買いやすいから攻撃しやすく同意も得やすいところを攻撃しよう”ということでないことを心から祈る。スケープゴートを作るというのは、僕にいわせれば“そうしなければまとまれない”己の程度の低さを自ら露呈することでしかない。

「自分がこう思うのだから、同じ考えを持つ人は他にもいるだろう」というのは、確かに一理ある。僕自身そう思っている部分があるからブログなんてものをやっていられる。
しかし、自分の体験や考え、そして思い込みをさも一般的であるかのようにすり替えて話すのは、話題の進め方としては性急で稚拙だ。もしかしたら卑怯かもしれない。
個人の価値観と一般論は慎重かつ明確に区別されなければならない。


我々にとって“いいお客さん”とはこちらの言うことを聞いて黙って金払う人

これは昔、あるアイドルグループの事務所スタッフが本当に言ったことだそうだ(直接聞いたわけではないから、細かな言い回しの違いはあると思う)。ライブ回数やチケット価格、FC会費、グッズ展開などを考えるとこれが本音であることは理解できた。言わなくてもいい本音をついつい言ってしまう人というのは嫌いではない。嘘を言わない人は信用できる。

どこの事務所でも本音は同じ、またはそれが望ましいと考えられていると思っている。“楽して金儲け”は永遠のテーマなのだ。

これは先入観による偏見であることを先に断っておくが、非群集心理的集団の中に、積極的に“いいお客さん”になろうとしている人、良識のあるところをアピールしたい人がいるように思えてならない。
否定はしないが、何がしたいのかと疑問に思う。“自分は良識を持って理性的に行動しているのだから、群集心理にとらわれて不道徳な行いをする者たちとは違う”と思って安心したいのだろうか。醜い自己満足だ。ボードを掲げたり奇声を上げたりする連中と本質的にどんな違いがあるのだろう。

どんな意識を持っていようが、端から見ればキモいヲタクだよ。同類同類

同類と思われたくないという気持ちも理解できなくはない(したくはない)が、だったら仲間であるヲタクの行動や言動だけでなく、すべてを“ヲタク”で一くくりにしようとする人々の頭の中も修正されて然るべきだろう。

問題意識を持つ人たちが行動することで(行動しないでネットで憂さ晴らしをして終わってる人もいるが)結果的に現在よりも“雰囲気のいい”コンサートになるのならそういう意識を持つのも悪いことではないのかもしれないが、僕にとってはこの上なく気持ちが悪いし、雰囲気がよくなることもないだろうと思う。客が客を監視する客席など雰囲気がよくなるはずもないし、気に入らない人間の気に入らない部分を非難し自分の気に入る鋳型にはめ込もうというネガティブな意識が、よい雰囲気を生めるはずはない。そういう人はきっと死ぬまで気に入らない人間の気に入らない部分を探して騒ぎ続ける“問題”を生産し続けるのだ、とスティグマをラベリングしてみる。


(追記)
問題意識を持つというのは悪いことではないのだけれど、それはステータスでもなんでもない。“自分は高い意識を持ってコンサートに臨んでいる”“自分は雰囲気に流されることなく自律的に行動している”のだから意識が低く周りに流されている者たちとは質が異なるものである、と思っているなら、それは12月1日付に書いた“自分を見て(意識の中心に置いて)楽しんでいる”人々と何ら変わりはない。
もう一度よく考えてほしいので、手前味噌ながら引用する。

コンサートに来るのなら、ステージを見てほしい。意識を向けてほしい。
これではステージは、演者は、自分で自分を見て楽しむためのきっかけでしかないではないか。
そういう閉じた意識が他人には不気味に感じられること、そう思われることが誰にも利益をもたらさないことに、いい加減気づいてもいいだろう。


ステータスなどむしろ積極的に放り出して、全員が平等な一ファンとして、ステージの上で歌ってる大好きなあの子に向かって一つになるのが観客のあるべき姿だと思う。演者が「みなさ~ん!」と呼びかける時、彼女たちは客を一つのものとして扱っているのだから。まさか演者の意思に従えない人はいないでしょう?

それができないから自分の気に入るように作り変えようとするなら、それは傲慢だ。

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大長文(7)「現実に対処、現実的に対処」

日常的にコンサートに行っている人にはわからないかもしれないが、若い女の子の歌に合わせて大の大人が大勢で踊り狂うというのは、日常ではありえない光景である。
正常と異常、正統と異端の境界が曖昧になるのがハロプロの客席なのだ。
ならば、そこに日常の規範を過度に適用しようとするのは乱暴ではないだろうか。
“それは異常なものなのだから正常化するべき”というのは決して正しくはない。限定された場で規範を逸脱することによりかえって正常な精神を保て、日常の規範に逆らわずに生きることができるということもあるし、正常な世界に同調しづらい異常な人にとっては、異常なままでいられる時間と空間はこの上ない癒しとなるだろう。そういう機能に目を向けないのは成熟した大人のとるべき冷静な態度ではないし、異常だからと弾き飛ばしてしまうのは人道的なやり方ではない。
ただ“正常なままの人もいるのだから、それはそのままあるべきで異常なものに同調させることはない”というのはその通りだ。

正常なままでいる人、その場でだけ異常の領域に足を踏み入れる人、両方あっていいものだと思う。
問題はそれらが客席に混在することで、互いの立場に敬意を払いづらくなっていることだろう。席を分けるのが現実的な対応かもしれない。たとえばカオス(混沌)席・コスモス(秩序)席という具合に。それならば、コスモス席でどんなに厳格なルールが適用されマナー遵守が叫ばれようと、カオス席で飛び跳ねている者に影響をおよぼすことは少ないだろう。ならば互いの棲み分けもできようというものだ。

マナー問題を語るとき、僕たちは不用意に“みんな一緒に楽しめるコンサートを”という。しかしそれは共通認識だろうか。自分が存分に楽しめればそれでよく、できることなら邪魔くさい他の観客はいない方が望ましいと心の底で思っている人は意外に多いのではないだろうか。

演者と一対一の関係になることを望む“観客とは何か”がわかっていない人もそうだろうし、今まで自分と、いてもせいぜい家族くらいの空間(つまり“他人”のいない場所)でTVやDVDを見ていて、生は初めてだという人のなかでも、大勢が集まる空間に慣れていない人はそんな考えが頭をよぎるかもしれない。そういう人たちにとって他の観客(=他人)というのは、その場にいるだけでストレス源だ。排除したいという心理がはたらいて否定的な感情を持ってしまってもおかしくはない。人間とはそれくらい自分勝手なものだ。

周囲に気を配り“みんな一緒に”と考えるのは、場数を踏んで周りに意識を向ける余裕のできた者だけの発想ではないだろうか。ならば、自分が楽しめればそれでいいという人たちに必要以上に遠慮し、萎縮する必要はない。

ライトユーザーの反応を絶対的な価値であるかのように扱っている割には、
「どの程度なら怖くないですか?」
「キモい・キモくないの境界はどこですか?」
「あなたがたが次のコンサートに安心して足を運ぶために、我々にできることはありますか?」
という取材を行った人が見受けられない。軽率だ。ヲタもライトユーザーも一緒に楽しめるコンサートにしたいなら、常軌を逸した(と思う)行動をとるヲタを「こういう連中がいるから一見さんがリピーターにならない」と非難するのもいいが、まずは実際に“ライトユーザーは本当のところどう思っているのか”が気になって、調べようと考えるのが科学的で論理的な態度ではないだろうか。

そして、もし「アンタたちがいなくなれば安心」とでも言われたならば、「わかりました」と行くのをやめるもよし、「それはできない」と突っぱねるもよし。「妥協点を見つけましょう」と話し合うもまたよし。ヲタの間だけで内輪もめをやってる暇があるなら、そういう実のある対話をした方が話は早いと思うのだが。本気ならばできるよね。できないのなら、所詮はその程度の問題意識だということ。そして僕は“その程度”だ。

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大長文(6)「ヲタクは差別にあっているのだ」

さらにいえば、ヲタに対する悪印象を言葉にする人には、もしかしたら初めからヲタへの先入観による偏見があるかもしれないという考えに至る。その可能性を無視して“一般の人にこう思われている”という話をしてしまうのは軽率だろう。前々回のラベリングの話ではないが、ヲタをキモく怖くしているのは、“キモイ”“怖い”と思っている人たちかもしれないのだ。

それは逆にお前の先入観による偏見だといわれたら「もちろんその通りだ」と答えるが、長い間、色々な場所で、僕はそんな目で見られ蔑まれた経験をしているのだから、経験則としては疑いようがない。少なくとも自分の耳で聞いたことのない“ライトユーザーの意見”よりは信用できる。

理解してもらえるかどうかは別にして、説明しやすいのが大ブームとなった『電車男』だ。
“あるネット掲示板の住人の恋愛を他の住人が応援して成就させる”というのが単純に“いい話”なのは認めるが、なぜアレが恋愛物語として解釈されるのかが僕にはわからない。
自己変革の物語であり顔も本名も知らない者同士(ここが新しいというのはわかる)の友情物語ではなかったのか、という疑問が頭から消えない。伊東美咲は実写版「逮捕しちゃうぞ」の頃から好きなのでドラマは見ていたが、どうにもそのへんが釈然とせず、そこには隠された何かがあるのではないかと考えた。

僕にとってその謎を解く鍵は、劇中での“ヲタク”の描写だった。
ヲタクというのが“ちょっと変わった人たち”であることは認めよう。事実だから。だがあれじゃスティグマをラベリングしすぎだろ、いくらなんでも。コメディタッチのドラマなんでデフォルメしましたという言い訳は受け入れるが、あれを見て“趣味に没頭して他のことは眼中にないように見えるヲタクも、恋もすれば悩みもする普通の人間なのだ”と好意的に解釈してくれる人ばかりではないだろう。

好意的と書いたが、そもそも“普通の人間なのだ”と認識されるというのは、これまではそう思われていなかったということだ。
“二次元キャラクターが大好きなヲタクが一般女性に恋愛感情を抱くとは!”という驚きはなかっただろうか。驚くのはありえないと思っていたことだからだ。
なぜありえないのか。もちろん“ヲタクは二次元キャラクターが好きな人なのだから”なのだが、そこに“そんなヲタクは二次元キャラクターに恋をしていればいいのであって、リアル女性に恋愛感情を抱くとはおこがましい”という意識は本当にないのだろうか。おこがましいという意識は上位階級の者が下位階級の者に抱く意識、“身分をわきまえろ”ということだから、そこには階級差がある(と思われている)。もしくは作られている。

ヲタクでない人にとって、ヲタクは自分より下の階級に属するもので、もっといえば人間ではないのだ。だからああいう戯画化されたヲタク像が何の疑問もなく受け入れられたのではないだろうか。

ドラマの制作者がそういう差別的な考えを持っているだけ?
そうではないだろう。TVというのは“大衆の気分に忠実になる”側面がある。多くの大衆の気分に合わない番組は視聴率が取れずスポンサーがつかず広告収入が入らないからだ。たとえフィクションであっても、そこから外れた描写はできない。

『電車男』ブームというのは、少なくともドラマの高視聴率に関しては、恋愛話を隠れ蓑に“みんなでヲタクを蔑んで[下には下がいる]と安心しよう”ということだったのかもしれない。

人間だと思われていないのに、メガネだのメイドだのツンデレだの、商売に利用するためにだけおだて上げられ、利用されているのがヲタクなのだ。その現実には、怒る人がもっといてもいいと思う。みんな気づいてないのか、気づいていて“それはそれでこちらの求めるものが供給されるわけだから”と冷静でいるのか、耐えているのか、諦めているのか、僕にはわからない。

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大長文(5)「早い、早いよ」

こういう思考ルーチンに陥っている人はいないだろうか。

「自分にとって迷惑な行為があった」
「こういう行為はきっと他の客にとっても迷惑だろう」
「だから親子連れや“ちょっと興味がある”人(以下ライトユーザー)の足が遠のく」
「これは問題だ」

現象としての事実はそれぞれ確かにあるのだが、それにしてもやや短絡的であるように感じる。
ライトユーザーがコンサートに来なくなった要因として、まず第一に挙げられることがヲタが怖いとかキモイとか迷惑を被ったとかいうことだったり、あるいはそれが決定的な判断材料になったりしたのだろうか。もちろんそういう人もいるだろうと想像はできるが、他に要因はないのだろうか。

チケット価格の問題もあるかもしれないし、単純に興味がなくなっただけかもしれない。というより、僕はこの二つのどちらかが最大の要因だと思っている。

ハロプロのコンサートのチケットは、コストパフォーマンスでなく単純な価格の問題として、相場としては妥当な価格かもしれないが、決して安くはない。友人と行くなら割り勘もできるだろうが、子供を連れていくとなると相当の負担だ。たとえば2006年1月に行われるハロプロ横アリ公演のファミリー席を一般発売で親子1枚ずつ買ったとすると13600円(税込)。その金額は何日分の食費になるだろう。ちなみに我が家(両親と僕)の場合だとおよそ一週間だそうだ。そんな金額をポンと出せるのは、よほどの資産家か家計をやりくりして貯金している人か、でなければ親バカだ。失業中でありながら、たとえペースがそれまでの半分程度に落ちたとはいえ現場に行けるということを、僕は両親に感謝している

そして、ライトユーザーは驚くほど移り気だ。たとえば、よっぽどのファンやマニア、あるいは非常に強く印象に残っている人を除けば、半年前に見た映画や聴いた音楽の話を今する人はどれくらいいるだろう。

要因の一つだとは想像するが、客のマナーとライトユーザー層の減少との因果関係を証明するのは難しいだろう。“実際にそういう声を少なからず聞いた”といっても、黙って去っていった人のことはわからないからだ。統計学的に信用できるだけの数字を持ってきてもらって、しかも嘘をついていない(本当の理由が別にあるのに他の理由を挙げるということは、人間の心理としてはないとはいえない)と証明していただかない限り、それは信用するに値しない意見だと思う。となると僕が最大の要因と思っていることも、経験による僕の思い込みかもしれないということくらいはわかる。

こういう話は案外しづらいようだ。広げるのが難しい話だから某巨大掲示板サイトでやっても盛り上がらないのはわかるが、ファンサイトでもできないのはどういうことだろう。チケット価格の件は事務所やプロモーターを、興味の件はメンバーを誹謗することになるから?不愉快に思う人もいるから誹謗するような書き込みはすべて許されない?応援するサイトなのだから誰かを批判するのはネチケット違反?


ああ気持ち悪い。


「“マナーの悪い客がいるからライトユーザーが来ない”という話をしているのだから話を逸らさないで」?それは本当のことなのかという疑問を提示しているのだから的外れな話ではないでしょう?

結局スケープゴートを作りたいだけのような気がしてならない。


<追記>
あまりにも他人に気を使いすぎて自縄自縛に陥っているというか、「自分に気を使え」というバカが増えたせいか、自由な言論(というのも大げさだが)が妨げられることによって、ファンサイトは風通しの悪い場所になっていると思う。かつて存在した「モーニング観察学」(僕も今とは違うHNで最末期の時代にお邪魔していた)のような“ここは応援サイトじゃないよ”というスタンスのサイトがもっとあっていいと思うのだが、今はもうないのだろうか。

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大長文(4)「ヲタクは一つ」

絶対に忘れてほしくないことがある。

迷惑行為をする者と迷惑を被る者が一緒になって客席を埋めているのが現実であり、我々はそういう現場に、自分の意思で、好き好んで通っている。

事の善悪はさておき、この現実だけは認識してほしい。
「いや、そんな現実は本来あってはならない」「自分は迷惑行為をはたらくような奴とは連帯できない」という人がいるならば、その考えは尊重するが、それでは永遠に“一つになる”ことも“最高の至福”を得ることもない。僕にとってはそっちの方が大問題だ。
“本来”といってみたところで、それは実はあなた個人の理想でしかないのかもしれないのだから、繰り返しになるが、理想と現実との間に齟齬が生じて頭にくるというのは子供っぽくないか?ということでもある。

「水清ければ魚棲まず」というのは「あまりにも清廉潔白で、品行方正な人は、かえって人から敬遠されて孤立してしまうということ」なのだが、「あまりにもクリーンで純粋な理想は決して人々を幸せにしない」という意味もあると勝手に思っている。

非群集心理的集団に属する者の言葉から、時に群集心理的集団に対する敵意と、それを伝播し共有しようという意識を感じることがある。本人たちは絶対に認めない(あるいは当然のことと居直る)だろうけど。
そんなものを共有したくはないが、僕にも逆にそういう非群集心理的集団への敵意や反感、“この人たちは権威を持つ存在になろうとしているのではないか”という警戒心があるかもしれないから、ネガティブな意識を持つという点では同じだろう。

今のところはそこまではいかなくとも、すでに群集心理的集団と自分たちを区別して考えているのではないだろうか。“彼らのような連中がヲタのすべてだと思われたら我々にとって迷惑だ”というふうに。だとしたら、それは敵意や憎しみに変わりやすいものだから、結果としては同じことになりかねない。

ナチス、イスラム過激派、パレスチナゲリラ、・・・みな意識の中で“彼ら”と“我々”を区別し、“彼ら”を敵として憎み、あるいは“我々”が正義であるからすべての行為は正当であるとして過激な運動に走っていった。彼らに“人類は一つ”という思想があれば・・・というのは、こんなところでモーヲタ風情が偉そうに語らなくても、誰か学識のある偉い人がどこかで語っていることだろう。

国際的な問題か、極東の島国における趣味人の内輪もめかという規模の問題はあるにせよ、同じことが行われるかもしれないという危機感がある。手荷物チェックのいい加減さを考えれば、「マナーの守れない奴は死んじまえよ」と爆弾テロを行うことも十分可能なのだ。できればそれは未然に防ぎたい。

いくら彼らだ我々だといってみたところで、外から見りゃコンサートに来る連中はみな“ヲタク”でくくられるのだ。ジャニーズのコンサートに行く奴はみなジャニヲタで、大塚愛を見に行くのは愛ヲタなのだ。一般の人が見に来ないコンサートがないように、熱狂的なファンやマニアのいないコンサートもありえない。

ヲタクは一つ。


下手にレッテルをはってしまうと、問題はこじれるばかりだ。

ある個人や集団にレッテルをはることをラベリングといい、ネガティブなラベルのことをスティグマ(烙印)とよぶ。人間には自負心(=対自欲求)がある。だから、スティグマをラベリングされた人間はいつかそれに居直り、スティグマを核をして(引用者注・核としての誤植か)自分のアイデンティティを組み立て、それに誇りをもつようにさえなってくる。これを否定的アイデンティティの引受けとよぶ。
(『社会学がわかる事典』森下伸也/日本実業出版社/2000。72ページ「「悪い」と思えば悪くなる 予言の自己成就とラベリング」より)

社会学がわかる事典―読みこなし使いこなし活用自在

すでにネット上で同じようなことがあったという話は聞いている。己の正当性に自信を持つあまり、人間の心理に配慮することを忘れたための失敗だ。こういうことを迂闊にやってしまうから、非群集心理的集団を支持することはためらってしまう。

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大長文(3)「ちょっと待った」

群集心理的集団にも疑問に思うことはある。
彼らは本当に演者に好意や興味、関心を持っているのか?ということだ。
どうも“派手な衣装や振る舞いで目立つ自分”“日常の規範から自由になった(つもりでいる)自分”が大好きなように思えてならない。
気持ちは理解できる。その日のために用意した特別な衣装を身につけると気分が高揚するし、周囲と違う行動をとることで“他の何者でもない自分”を強く認識でき、自尊心が満たされる。規範を逸脱する行為は、以前書いた“タブーを冒す快感”に近いものがあってとても気持ちがいい。

でもねぇ。
特別な衣装を身につける自分。
他の何者でもない自分。
タブーを恐れない自分。
興味のすべてが自分に向いている。自分を見て(意識の中心に置いて)楽しんでいるだけではないか。
何しに来ているのかと疑問に思ってしまう

コンサートに来るのなら、ステージを見てほしい。意識を向けてほしい。
これではステージは、演者は、自分で自分を見て楽しむためのきっかけでしかないではないか。
そういう閉じた意識が他人には不気味に感じられること、そう思われることが誰にも利益をもたらさないことに、いい加減気づいてもいいだろう。

目に余る迷惑行為をやめない者への最終的な手段として、退場や入場禁止、あるいはFCからの強制退会といった送り手側からの規制あるいは排除を望む考えもあるらしい。

それは確かに非常に効果的な方法である。だが僕は刑法犯になるような事態でもない限り、その手段の行使には断固として反対だ。極端から極端へと思考を走らせるのは大人のやることではないと思っているからでもあるが、もう一つある。

それを一度許してしまったら、迷惑あるいは禁止とされる(そう判断することが許される)行為の範疇を広げられる恐れが十分にあるからだ。それは人類の歴史をたかだか100年程度のスパンで紐解いてみればいくらでも出てくる話だと思う。人間とは、それくらい自制心のない生物なのだ。そこに確固たる“理由”なり“大義”なりがあればなおのこと。

他人をコントロールするというのは実に気持ちがいいもので、それに対しては、悲しいかな抑制がなかなか効かないのが人間の暗黒面である。となればその行為は自然にエスカレートする。ちょうど自制せずに迷惑行為を続ける輩と同じく「アレがOKならこれもOKだろう」という思考パターンだ。

「投げる奴がいなくならないからサイリウム禁止」
「席を移動する者を根絶するには立たせなきゃいいんじゃない?」
「空気読まずに奇声あげる馬鹿がいるから声出すの禁止にしよう」

とまで考えられてしまう危険性を想像できないというのは、実にお気楽でおめでたい。客の誰かを排除しなければならないのなら、むしろそういう安易な考えをしてしまう者こそ排除されるべきではないだろうか。いずれはすべての客に悪影響を与える危険思想だからだ。自分ではどうにもできないから誰かになんとかしてもらおうというのが甘えであると気づかない人がいるというのが僕には信じられない。


とはいえ、誰かが排除されてしまうことは決していいことではない。
“みんな一緒に楽しむ”ために必要なのは対立や排除ではなく、融和(宥和)であり連帯だろう。

すべての観客が同等の権利を持つ客席に“権威”は不要だ。

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大長文(2)「マナー論争に絡んでみる」(その二)

「ぶつかるぶつからないの問題ではなく、周りでチョロチョロ動かれるとステージに集中できないんだよ」
という話も聞いたが、これについては「本気で言ってるのか?」と問いたい。

アイドルのステージをそんなに集中して見ないでくださいよ、気持ち悪い。

すまない、冗談だ。

真剣にステージに集中し、演者が求めるものを声や動きや表情から感じ取り、それに応えようとしていれば、周りの客などは気にならないものだと思うのは僕だけだろうか。
集中なんかじゃなく、没入してくださいよ


演者の心を感じ、客席にいる人のすべてが自分なりの方法でそれに応えていく。これこそが“ステージと客席が一体になる”ということの理想的な姿だろう。

それを妨げる権利は誰にもない。たとえオークションで大金を積んで良い席のチケットを手に入れようと、客席で観客一人が主張できる権利はチケットの券面金額分でしかなく、全員が対等である。1席分のスペースでは思うように踊れないというのならチケットを2枚以上買うしかない。一般発売でならそれなりの枚数が買える。

ただ、自分の席のスペース(=観覧における自己の領域)にこだわりすぎると、今度は領域を侵犯するものに対する敵意が生まれてしまう。それについてはこう考える。

たとえば1万人の観客が集まる場合、客席は1×1万ではなく1÷1万である。

一つのスペースを一人一人の観客に割り振っているのだと考えることができれば、自分たちは同じ空間にいるのだという意識もでき、敵意も生まれてこないだろう。

それを如実に感じさせるのが、我が敬愛するメロン記念日ヲタの諸兄諸氏である。
メロン記念日は、今でこそ休日にホールでハロプロパーティーなんかに出ているが、かつてはオールスタンディングのライブハウスで平日にライブをやっていた。交替人員のいない零細企業で働いていた僕は休めずに何度残念な思いをしたか。

ライブハウスは、2階席のあるところも存在するが、大部分の客は一つのスペースにすし詰めにされる。そこには守られるべき観客一人分の空間などはなく、まさしく“一人一人の観客に割り振っている”。
そんな公演で“一つになる”経験をしているからこそ、メロンヲタは熱く、またメンバーにも「仲がいい」と言われるほど団結力が強いのではないかと思う。
そういう意味でも、彼らは僕の理想だ。


踊る奴がうっとうしいという者も、楽しんでるのに文句言われるのが気に入らない者も、どうしても我慢ならないくらい嫌なものなら来なけりゃいいだけ、退場すりゃいいだけの話である。そういう意味でも、すべての観客は対等だ。

迷惑を被る可能性があることがわかっていて、それでも行かずにはいられなくてついついチケット取って出かけてしまうというのなら、行く方にも問題がないわけではないだろう。
客席で必要とされているのはあくまでも観客であり、依存症の患者ではない。

いくら非日常的な時間と空間におけるお祭り騒ぎといっても常識的なモラルがあってマナーは守られて然るべきだからと、他人の迷惑おかまいなしの人がいる現実を無視して会場に赴き、運悪く何らかの迷惑を被ったら文句をいう。子供じみてはいないだろうか。なるほど、「文句のある奴はファミリー席行けよ」というのにも一理ある。あそこは子供が見る席だから子供じみた大人が見るにもふさわしいだろう(笑)。


自分の部屋でテレビを見るように生のライブを見ることはできない。前後左右を他人(自分ではない者)に囲まれている状況では、自分も他人も楽しんで満足するために、他人の都合と自分の都合をすり合わせることが求められる。
そこで必要なのは社会性や社交性だろうと考えたとき、思わず笑ってしまった。そんな言葉とはもっとも縁がなさそうなヲタクの世界でも、社会性や社交性がなければ一人前のことはできないのだ。


もう少し他者(自分と価値観を異にする人)の存在を許容するよう注意して現場に足を運んでもらいたいと思う。自戒をこめて。

誰かが卒業する時だけサイリウムの色を揃えて振ったって、「こういう時だけ団結するのね」という気分が混ざってしまっては感動も何もあったものではない。

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大長文(2)「マナー論争に絡んでみる」(その一)

率直にいって、若干過敏ではないかと感じている。

実は、僕は他の観客から迷惑を被ったことがない。というより、いくつかの例外を除いては、僕にとって“迷惑行為”自体が存在しない。演者に危険や不快感を与えず、コンサートの進行を妨げない限りは、僕はかなり寛容であると自負している。どちらかといえば群集心理的集団の側に立っている立場で、したがって非群集心理的集団の皆さんとは基本的に認識が違っているであろうことをあらためて確認して、話を進める。

横の客にぶつかられたことも、後ろの客のサイリウムで殴られた(誇張)も、水かぶったこともある。昨年の夏メロンでは上から降ってきた客(笑)とモロに衝突して眼鏡のフレームが曲がった。8月のW&Berryz工房大宮ソニックシティでは斜め前の客がMC中にのべつまくなしにボードを掲げてギャーギャー騒いでいた。
しかし、多少のツッコミは入れても、それらのほとんどを僕は許容したいと思っている。

先に記した(11月9日付参照)ように、集合的沸騰による至福の感情はアルコールに似ているそうだから、彼らは酔漢と同じようなものである。
日本では酒場で他人の迷惑を省みず大騒ぎしたり狼藉をはたらく者がいても“酔っている(いた)”からと許す習慣があるではないか。むしろそちらの方を許せないと思っていて、自分はそうなりたくなく、そのためには酒に強くなるより飲まない方が手っ取り早いだろうと考え、滅多なことでは酒を口にしないようにしている(他にも飲まない理由はあるが)。

例外(迷惑とはいわないまでも見ていて違和感をおぼえ、ツッコミを入れたくなる対象)は何かというと、まずはボード派。“反応”をもらうことで、演者や他の観客と一体になることではなく演者と一対一の関係になることを望むなら、なんとかして私的に知り合って“ファン”“お客さん”の立場を脱することを目指した方がその目的には合っていると思う。コンサートに来るということは観客という大勢の中の一人に甘んじるということでもあるのだから、そんな暇と金があったらそこから脱する努力をした方が夢の実現にはより近づけると思う。

それから振りコピ派。やるなら徹底的に練習してそれなりのスペースでちゃんと踊ってほしい。それならば僕は惜しみなく喝采を送るのだが、客席の狭いスペースでいい加減に真似てよしとする怠惰で無様な姿は滑稽を通り越して不愉快。演者に失礼だとも思える。まぁどれだけやったところで、若くて美しい娘さんたちが踊ったときに一番美しくカッコよく見えるように考えられたダンスは野郎ども(美しくも若くもない者が多く見受けられる)が踊るのにふさわしいものではないと思うが。

僕は最近“観客は[背景]でいいんじゃないか”と考えるようになり、よりよい背景とはどうあるべきか、一人で勝手に試行錯誤している。そう考えると激しすぎる自己主張は背景といえる(僕が勝手に設定した曖昧な)ラインを越えていて見苦しい。


それからもう一つ。楽しくサイリウム振ったり飛び跳ねたり踊っていたりする時に、
「見えない」
「邪魔だ」
「他人の迷惑考えろ」
などと言われたり、時には殴りかかられたりすることだ。そんなことがあれば、せっかく気持ちよく至福の感情に酔っていたのが台無しである。幸いなことに経験はないが。


このように、僕にも不愉快な観客は存在する。
しかし、それをやめさせようとは思わない。不愉快だというのは僕の感覚や感情にすぎず、それをもって他人に影響を与えようというのは傲慢だと考えるからだ。
僕に理想のコンサート像があるように、彼らにもそれがある。自分の理想が実現しないからと腹を立てるのは幼稚だ。
自分にとっての迷惑行為をやめさせようということが、相手にとってのそれになるということもある。
正義とは常に相対的なものであり、あなたに、または僕にとって正義でも相手にとっては悪だということがある。それを知っているか、せめて想像している人がどれくらいいるのだろう。どうも自分の価値観や“たまたま見に来た一般の人の反応”“世間の評価”を絶対視している人が多いように見受けられる。

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大長文(2)「マナー論争に絡んでみる」(序)

とてもよい本が手に入った。
『日本はなぜ諍いの多い国になったのか 「マナー神経症」の時代』(森真一/中央公論新社・中公新書クラレ/2005)

日本はなぜ諍いの多い国になったのか - 「マナー神経症」の時代

そんなに厚い本でもなく文章も平易で読みやすいので、活字に慣れている人なら1時間前後で読めるだろう。シングルCD1枚分の金でお釣りがくるので、興味のある方は大人買いの枚数を1枚減らして読んでみてほしい。金を払うのがイヤなら、時間と手間はかかるが地元の図書館にリクエストしてもいいと思う。立ち読みは自分が苦手なので人に勧めないことにしている。


ハロプロのコンサートにおける観覧マナーとして、問題とされている行為の例をいくつか挙げてみよう。

席のスペースをはみ出して踊って隣の観客にぶつかったり足を踏んだりして、しかも謝りもしない。
メッセージボードやウチワなどを高く掲げて他の観客の視界を遮る。
シチュエーションを考えずに奇声をあげる。
珍妙な服装で会場に現れ、しかもそのまま電車に乗って帰っていく。着替える者は着替える者で公衆の面前で半裸になる。
ゴミを放置して帰る。

このほかにもあるようだが、まぁよくもここまで他人の行動をいちいちチェックしていられるものである。それだけ他人の行動が気になるのだろう。“自分が他人からどう見られているか”が気になってしかたがないことの裏返しだと考えるのは、単に僕がそういう人間だからだろうか。

ル=ボン(引用者注・フランスの社会心理学者。 1841~1931)らの群集心理学は、理性的能力の低下、感情の高揚、責任観念の喪失、被暗示性の高まりといったことを、群集のおもな特徴として考えた。
(『社会学がわかる事典』森下伸也/日本実業出版社/2000。156ページ「コンサートはなぜあんなに盛り上がる? 群集行動」より)

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ギュスターヴ・ル=ボンが群集(衆)心理を分析した「群衆心理」(桜井成夫訳/講談社学術文庫)が書かれたのは19世紀末だそうだ。その時点ですでに“群集”とはそういうものだったらしい。

ということなので、マナーを守れない(とされている)者の集まりを群集心理的集団、マナーを守ろうと呼びかける者の集まりを非群集心理的集団便宜上呼ぶ仮に分類することにする。そして拙文で俎上に上げるのはおもに後者の方。なぜならば、群集心理に飲み込まれて冷静さを失っている人よりは“話せばわかる”と思っているからであり、せっかく理念は正しいのだから、実践の方法を間違ってほしくないからでもあり、残念なことに現状ではツッコミどころが満載だと思えるからでもある。エールのつもりで書いているのだから、そう受け取ってほしい。


非群集心理的集団に属する誰かがサイト/ブログで問題提起し、それに賛同するものが次々と批判の声を上げ、群集心理的集団の者がそれを読み、感情的になって反論(自己弁護?)を行う。互いの主張はかみ合わず、議論にも何にもならない。その後は非群集心理的集団の中だけで“これは問題だ”“なんとかならないものか”という話が手を替え品を替えて延々と繰り広げられ、群集心理的集団はそこに寄り付かない。かくしてさながら欠席裁判の様相を呈していく。結局建設的な議論はまったく行われない

通常はその程度の問題にしかなっていないのだが、先日の長野パーティーのように何かのきっかけがあれば話題にはなるので、意外に広い範囲で潜在的な関心が持たれているようだ。きっかけといっても「こんなにマナーの悪い客がいた」という話ばかりで「この人たちのマナーのよい振る舞いに感心した」という話は出てこない。そういう人が少ないのだということではあろうが。

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大長文(1)「現場には何があるのか」(後編)

これはフランスの社会学者エミール・デュルケムのいう“集合的沸騰”だろうと思う。この概念が提示されたという「宗教生活の原初形態」(古野清人訳/岩波文庫)は読んでいないのだが、

同質の人間たちが集合することによって生じる感情の高ぶりをデュルケムは集合的沸騰とよび、人間が経験しうる最高の至福であると考えた。この至福の感情は、アルコールと似ていて、自我と自我のあいだの壁がこわされ、自我と他者が溶融して自分という存在がどこまでも広がってゆくかのような感覚から生まれる。
(『社会学がわかる事典-読みこなし使いこなし自由自在』森下伸也/日本実業出版社/2000。157ページ「人間はなぜ群れたがる? 集合的沸騰」より)

社会学がわかる事典―読みこなし使いこなし活用自在
森下 伸也
4534031734

ということだそうだ。なるほど、コンサートの盛り上がりが(個人的にもセットリスト的にも)最高潮に達したとき、観客の意識が会場の空気を満たしていくのが見えるような感覚をおぼえたことはある。そこに自分の意識を飛び込ませていくのは、確かに“最高の至福”だ。

だから、同じ場所に集まっているのに客の一人一人が違うことを考え、空気が散漫になっていると感じられてしまう“握手会”というイベントが僕は嫌いだ。みんなで盛り上がるのが好きでそれ以上のことは求めていないのだから、僕にとっては過剰で無用なサービスでもある。


その至福を得るという崇高なる目的を持った祭礼において演者の役割は、同じ目的を持つ者であると同時に、その目的への媒介、いわば“巫女”でもある。


これは僕一人の特殊な感じ方ではないだろう。だからこそ“アイドルの恋愛は是か非か”“アイドルと呼べるのは何歳までか”という話をしようという人が出てくるのではないだろうか。巫女を務めるのは“未婚の少女が多い”(広辞苑第五版より)そうだ。未婚というのを“特定のパートナー(多くの場合異性)を持たない”と拡大解釈し、パートナーを持つ者が巫女たり得るか、あるいは少女と呼ぶのがふさわしくない年齢に達した者が巫女を務めるのが適当かどうかという話をするのは、なるほど宗教上においては重要なことだ。

また、人生における大切な何かを投げ打ってヲタ活動に邁進している人にとっては、「俺(たち)と一緒に盛り上がること以上に大切なものを持たないでくれよ。そういう価値観を持っているタレントとは一つになれないじゃないか」と身勝手な危機感をおぼえることもあるだろう。それは時に自分がヲタ活動を続けられなくなる恐怖を生み、ことによっては激しい憎しみとなる。


自分でもやっと気がついたのだが、僕が前に“送り手と受け手が対等になる”ことにこだわったのは、もしかしたら祭礼の場である現場に巫女と観衆(民衆?信徒?)以外の者が君臨することを拒否したいのかもしれない。送り手の人は僕にとって一つになりたい対象ではないのだ。だから“あなたたちはこの幸福な関係の外にいる人たちなのだから控えてくれないか”と言いたいのかもしれない。


崇高なる目的を達成しようとするとき、その意識は神に近づこうとするものと近しいだろう。
その場においては“人(としての限界)を超える”ことが求められる。であれば、人をして人たらしめ、人間の社会で生きるために必要な“理性”なるものは時として邪魔ですらあるのだから、それを捨て(ようとす)る者がいても決しておかしくはないのではないかと思うのだが。

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大長文(1)「現場には何があるのか」(前編)

まったく知らなかったのだが、一部のサイトやブログでコンサートにおける一部の観客のマナーが問題視されていて、しかもそれについて語るブームはすでに過ぎ去っているようなのだ。遅いぞ俺。

まぁせっかくなので、適当なところで手を抜きつつ調べ、考えてみた。なぜ手を抜いたかというと、仕事でもなく興味もなかったからだ。その後興味が湧いてきたので資料を探したりこの件を扱っているサイトに行ったりするようになったわけだが。

まずは前段として“コンサートとはどういう場なのか”について私見を述べてみたい。

コンサートととその会場は、憧れを抱くテレビの中の世界の人と同じ時間と空間を共有する非日常的な体験が可能な場所であり、観客にはその体験から何かを得ようという崇高なる目的があると感じている。

考えてみてほしい。普段はテレビやDVDを見たりラジオ・CDを聴いたりという片側相互通行のような関係である人たちと、たとえ席が遠くてモニターを見るしかない場合であっても、同じ時間と空間を共有するのだ。これは間違いなく日常生活では体験することのできない特別なことではないだろうか。これはコンサートを日常的に、業務として行っている送り手の人には理解しづらく、また現場に参加する回数が増えるにしたがって忘れられがちな感覚ではないかと考える。

ただここで問題になるのは、特別な時間を特別な空間で過ごし、特別な体験をした者は、自分を特別な人間で、そんな自分の欲求は満たされるべきだと錯覚しやすいということ。もちろんそんなことはない。むしろ観客というのは、スタッフが総力を挙げて作り出し、演者がリハーサルを重ねて完成させた汗と努力の結晶をただ金を払っただけで見られると思っている怠惰な存在である。“金払っただけでこんないいものを見せてもらって申し訳ない”くらいの気持ちでいれば、少なくとも演者へのリスペクトはもう少し強まるだろうし、“この喜びをみんなで分かち合おう”という気にもなろう。


では観客は何を得ようとしているのか。
これは本当に人それぞれだと思うが、僕の場合でいうと、ハロプロに、アイドルに限らず、およそコンサートというもののすべてで体験したいことがある。

演者と観客が、あるいは観客同士が、同じ感動を分かち合い、心を一つにする。一つになる。

せっかく同じものを見て(そもそも同じ対象に関心を持って)、同じ時間と空間を共有しているのだから、できることなら同じ感動も共有したいし、一時的にでも価値観といえるものまで共有したい。心理学でいう“同一化”だろうか。
ただ見るだけでもとても楽しいものだが、連帯感を味わうのはもっと楽しいし嬉しい。

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僕らは報われない愛を叫ぶ(後編)

で、今回はその求愛行動に演者が応えてしまったのである。

これはちょっと“粋”じゃないと思う。娼婦と処女の使い分けというか、媚態を見せながら指一本触れさせないというような矛盾にこそ魅力を感じる。
決して応えられることのない求愛行動だからこそそこにロマン(?)があるのだし、客席からの求愛行動を適当にあしらってみせるのが演者の腕の見せどころだろう。その挙句にいつかは他のオスのところへ行ってしまうのだから、僕らは全員アテ馬のようなものだ。だがそれがいい

もっとも、突発事態(笑)へのハロプロメンバーの対応能力というのは低いだろうとは思う。制服向上委員会(以下SKi)じゃあるまいし、普段は一部観客の過剰な介入を織り込んだコンサートをやっていないわけだから、慣れていないはず。SKiのコンサートというのは僕が通っていた1994~97年頃は“みなさんどんどんチョッカイ出してくださいね”と言わんばかりのコンサートで、客は客で色々なことをやって(客の過剰な介入やアピール等を示す“しでかし”という専門用語もあった)、正直いってステージよりも客の方が面白かったわけだが、あれはあれで今になって冷静に考えるとかなり特殊だ(笑)。ものすごく楽しいが、他人に勧める気はない。

相手のスキルの低さに付け込んで自分の欲求を果たす形になってしまったのは残念といえば残念。

反応することで、その場には極めて限定された範囲での(その分当事者同士の間では濃密な)コミュニケーションが成立してしまった。

それがよいことかどうかというと、これはOKとは言えないだろう。コミュニケートしている当人たちは楽しくても、他の観客は無視されたにも等しいと感じてしまうこともあるわけだから。ちなみにSKiの場合はほとんどの観客が“どの客がどんなことをやるか”を楽しみにしていたきらいがあったし、“しでかし”をする客も自分だけでなく他の客をも楽しませるために腐心したものだ。

“みんなで盛り上がって楽しむ”という点では失敗したコンサートになってしまったのかもしれない。

送り手と受け手が相互依存している関係であるならまだしも、ハロプロはまだそこまでは閉じたものになっていないはずだ。はずだよね?

また、やはりSKiのように演者(というか制作側)も他の観客もそういう行動を望んでいるのなら大いにやってかまわないのだが、当該サイトでも某巨大掲示板サイトでも、また個人のブログでも非難の声が上がったということは、かなりの人数が不満あるいは不快に思っているということで、それほど望まれてはいないのだろう。ならば空気を読むのが大人の対応だと思う。

それでも、まぁそういうこともたまにはあるだろうし、毎回やられたらうっとうしいがたまにはいいんじゃない?とお気楽に考えている。


いい機会なので、コンサートにおける観客のマナー問題(というのがあるのだ)についての私見を、しばらくの間述べていこうと思う。7月の終わり頃から個人的に“夏休みの宿題”(って俺はいくつだよ)としてあれこれ調べたり考えたりしていたことを発表できる機会があって嬉しい。

高校生の頃、夏休みの宿題を提出しないでいたら教科担当教諭に「学年成績つけられないからお願いだから出して」と泣きつかれ、2学期の終業式が終わってから昼食抜きで仕上げたことがある。どうやらその頃から成長していないようだ(笑)。よい子は真似しちゃいけません。

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僕らは報われない愛を叫ぶ(前編)

ちょっと古い話になるが、長野のハロプロパーティーの後、あるヲタ集団(と誘われた人)の行動が問題となった。

説明するよりもここに行って読んでもらった方がいいだろう(TOP→亜依國精神→過去ログ→10月25日付)。多少の誇張や脚色があるようだから注意してほしい。

本当はそのサイトで書き込めればいいのだが、変なところでナイーブな人やおかしな読み取り方をして噛みつく人が現れても困る(といいつつ書き込んでもいるが、実際そういう人がいるので困っている)ので、ここでやろうと思う。ここ(表含む)や2chといった“好き勝手に書ける場所”に慣れてしまうと、ファンサイトというのは付き合いづらい


ああいう“介入系”の芸風に関しては、ハロプロのハの字もない頃からさんざん見てもやってもいる(自慢するこっちゃないが)から、懐かしく思うとともに「ここまでやるか!できるのか!」と感嘆もして、爆笑しながら読んだ。

強調しておきたいのは、あれは滅多にあることではなく、誤解を恐れずに(恐れてるが)いうと奇跡的な成功例だということ、真似をしてもみっともないだけだからやめなさいということだ。あそこまで“うまくいった”経験は僕にもない。意識していた部分はもちろん、そうでない部分についても目的は果たせただろう。
意識していない部分とは何かというと、“聖なるものを汚す”タブーを冒す背徳感からくる快感とでもいうべきものだ。

※ここからの内容には、いわゆるアダルト系の“下ネタ”が含まれます。不快感をおぼえる方は、この先の閲覧をご遠慮ください。また社会通念上18歳未満の方の閲覧には不適当な内容が含まれますので当該年齢層の方々もご遠慮ください。

恐らくコンサートというものは、開演から終演まで特にハプニングが起こることなく進行されることが期待されているだろう。それはスタッフから演者、大多数の観客に至るまで共通した目標(の一つ)だと思う。大勢が同じ目標を持って何かを行うとき、その目的は“聖なる”という表現をしてもおかしくないくらいに純化され、絶対的な価値を持つ。そこにハプニングを持ち込むという行為は、決して歓迎されるとは限らないので、その分快感も大きいと思う。

これは性文化(でいいのかな)の分野にも通じると思う。
なぜ不倫は燃えるのか。
なぜ他人の彼氏や彼女を寝取る者が現れるのか。
なぜアダルトビデオやポルノ小説/漫画において未成年者・教師・修道女・アイドルというモチーフが繰り返し使われる(それだけのニーズがある)のか。

他人の妻あるいは恋人や子供というのはセックスの対象として不適当なものであり、そういう意味では聖なるものである。教師や修道女はそれこそ“聖職者”と呼ばれているし、アイドルはしばしば聖なるものに祭り上げられる。それらをセックスの対象として扱うことには背徳的な快感を増す効果があるのではないだろうか。
こんな特殊な例を出さずとも、セックスそのものが互いに裸身や性器を晒すことで相手のプライベートに踏み込むことだから、それはもうある種のタブーである。着衣のままで性交を行ったり、ことさらに性器を見せつけたり行為を意識的に言葉にしたりという楽しみ方もあるが、そうすることでより“意識させる”効果があるので、意味合いは似たようなものだ。

“官能は感応に通ずる”という言葉を思いついたのだが、セックスというのは単に肉体的な交わりだけでなく、メンタル面の比重が大きいものだろうと考える。そういう部分への刺激ということについては、聖なるものを性なるものとして扱う行為は理解できる。


僕は二十世紀の末頃から“コンサートにおける観客のリアクションには求愛行動に近いニュアンスがあるのではないか”という仮説を持っている。証明する機会も根拠も資料もないが、そう考えると珍妙に映る服装や行動もなんとなく理解できるから不思議だ。

コンサートに来た親子連れやファンといえるだけの興味を持っていない人たちが、客席の盛り上がりに恐怖感や不快感をおぼえるのも無理はない。求愛行動とは“オイそこのメス、俺と子作りしようぜ”というメッセージだから、予期せぬところ(公共の場では発情しないという暗黙の了解はまだ信じられている)でそんなもの見せられたら困るだろうし、大の大人が(笑)人目をはばからず発情している姿というのは見ていてあまり気持ちのいいものではないだろうと想像できるし、また教育上よろしくない。理性をかなぐり捨てた姿は奇異でも恐怖でもあるだろう。

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二題

菊花賞

いよいよレースが近づいてきた。
ディープインパクトが史上2頭目の“無敗の三冠馬”になるという雰囲気が濃厚。というより、ディープ以外の馬が勝つことが許されないような空気にまでなっている。

これは異常だ。

ここまで来ると「負けてみてはもらえんものか」と思ってしまうから僕も相当な天邪鬼だ。
別に勝ってもらっても僕の買った馬券が当たるだけなのでどこにも問題はないのだが。

そこでハードルを設定しようと思う。

ディープインパクトで絶対。
負けることなどありえない。

僕がレース前に予想を発表すると、まず当たることがないのだ。それはもう一部競馬ファンの間で有名な“逆女神”吉岡美穂くらい。
これで勝ったら超一流を超える名馬だと思う。決してファンにはならないけれど。だって人気になって人気通りに勝つ馬なんて面白くもなんともないじゃん。
どの馬が勝つかわからないからギャンブルとしての面白さがあるのだと思うのだが。

英雄なんか僕には不要なんですよ。


今日のハロモニ。

(ネタバレ注意)

エリックには写真集が発売になった田中れいなが登場。ヤンキーごっこ(?)はよかった。演技だとしたら大したものだ。
亀造が着てたのと同じデザインの特攻服を作っちゃう人がいるかもしれない。現場では評判がいいというわけではない服装なので、そこらへんをもう少し考えてほしくも思った。

マジックレストランはマギー審司。この人やふじいあきらが他のマジシャンと違うのは、トークで笑いがとれるところだと思う。

脳内チェックは道重さゆみ。先週の藤本美貴に比べると今ひとつ。だって催眠術かかんないんだもん。気が向いたら久住小春でやってみてほしい。

久々にコント復活。なんか見てて寂しいなぁーと思っていたところだったのでこれは嬉しい。たまに見ると面白いね。

来週は、予告を見る限り伝説になるか非難囂々かどちらかになるしかないような内容なので、そういう意味で楽しみ。

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本日の「娘DOKYU!」

たまにはこういう速報性のあるネタで。


“自分はピンクが好きである”という話がいつの間にか“全身茶色で揃えちゃった話”になって、そのまま終わってしまうのには笑いました。一応モーニング娘。においては“頭がいい”ことになっているらしい紺野さんですが、こういう部分とか、“興味のある話”が即座に出てこないところを見ると、頭のいい人になる可能性はあるがそれを生かしきれてない人という印象を持ちました。


朝食の時間が40分ってそんなに“ゆっくり”なことだったのか。僕なんか今では起きてメシ食って着替えて出かけるまでに3時間かかります。ついでにいうと睡眠は8~9時間です。こういう生活をしていると、1日がアッという間に終わります。とても24時間じゃ足りません。

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ヲタク思わず感動

ひょんなことから発売されるのを知った。

アイドル・ミラクルバイブルシリーズ 高橋美枝・渡辺千秋・村田恵里 シングル・コレクション
渡辺千秋,村田恵里 高橋美枝
B000BNM8DS

これで感動と興奮のあまり記事が書けるのだから僕もマニアだ。


渡辺千秋と村田恵里は名前くらいしか知らない(渡辺は「スケバン刑事」の1作目に出ていたような記憶もある)が、高橋美枝の「ひとりぼっちは嫌い」という曲が大好きで、サビなんか22年経った今もソラで歌えるくらい心に残っている。アイドルファンでもある程度の年齢(ちなみに発売された1983年当時僕は中学生)でないと知らないようで、とても残念。作詞が松本隆だから、もしかしたら彼のファンの方により認知されているかもしれない。

過去にも何度かCD化されているのだが、なんとなくチャンスを逃していた。
今度はなんと全シングルのAB面に加え、未発表曲を収めた8cmCDまでついてくるという至れりつくせりの内容。これは買ってしまうかもしれない。
聴いたことない人も、機会があったら聴いてみることを勧める。おニャン子登場以前のアイドル・ポップスが好きな人には気に入ってもらえると思う。


同時に中山忍や宍戸留美、Qlairも発売されるらしい。かつて中山忍のFCに入っていた身としては嬉しいかぎりだ。ソニー・ミュージックよグッジョブだ。あとはこのシリーズで河田純子と吉田真里子とポピンズを出してほしい。ポピンズなんかアルバム含めた全曲集めてもCD一枚に入るだろう。
出してくれたら、旧CBS・ソニーがアイドルが売れなくなった途端にヤングポップス事業部を潰したことと河田純子との契約を打ち切ったことと“ジャケット送ってくれたら直筆サインを入れて返送”というキャペーンに引かれてポピンズの「ホワイト・ランデブー」のジャケット送ったのに19年経っても返送してこないことは水に流してやってもいいぞ。流したくないけど。

この中でQlairだけ旧キューン・ソニーなのだが、旧CBSと旧EPICと旧キューンがどんな経緯で現在のソニー・ミュージックになったか、実はよく知らない。キューンはキューン・レコードになったんだっけ?


河田純子と吉田真里子とポピンズは、実はこっちに収録されてたりする。そして「ひとりぼっち~」も入っている。
BOMB presents「永遠の’80お宝アイドル大集合!」
オムニバス ナカヤマケイコ オオタキユウコ
B00006YXVK

在庫少ないみたいだしこっちを先に買った方がいいのかもしれないが・・・迷う。
恐らく“デビュー曲を集める”というコンセプトだろうから仕方ないのだが、河田純子が「輝きの描写(スケッチ)」でポピンズが「妖精ポピンズ」なのはいいとして、吉田真里子はもっといい曲あるんだよなぁ。
なんか吉田真里子のアルバム聴きたくなってきた。さてどこにしまったやら。

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まとまりがなくてすいません

DEF.DIVAなんですけどね。


とりあえず音楽戦士とハロモニを見たが、これは微妙。面白かったのは衣装くらいだろうか。白に赤って紅白の暗喩か?という部分で。

今回はなんとなく松浦亜弥が浮いている。能力的にもそうだし、一人だけモーニング娘。を通過していないという意味でも。ただこの手のスペシャルユニットというのは必ずしも調和が取れている必要はないと思うので、これはこれで悪くない。

問題は安倍なつみ。確かにこの人の笑顔は魅力的だ。「恋の花」ではそれが曲の魅力を増していた感もある。
しかし、このシリアスな曲調でもヘラヘラしているというのはどうなのだろう。空気が読めないのはこの人の特徴でもあるのだが、歌手であれば“この曲にはどんな表情がふさわしいだろう”くらいのことは考えましょうよ。表情だって曲を伝えるのには大事なんだから。

石川梨華は思ったほど悪くない。ハロモニの司会や美勇伝では“私が仕切らなきゃ”と肩に力が入ってしまっているのだが、ここではいい具合に力が抜けている。先輩たちに甘えられるという状況があるのか、安心して伸び伸びとしているように見える。

後藤真希。最高。この人はほんとにかわいいと思う。またそう思わせるものを持っている。
決して後藤推しではない僕がそう思うのだから、推してる人はたまらないだろう。

曲はひどいちょっといただけない。サビは印象に残るのだけど、こういうダンスミュージックって中途半端に古くて、今はもっとも受け入れられないものではないのだろうかと思う。avexがあれだけ隆盛なのだからそうではないのかもしれないけれど、それっぽいものをわざわざやる必要が感じられない。


結論として、これは食指が動かない。これ買うなら今さらわざわざシツレンジャーを買う。
まさか“後浦なつみって今考えるとけっこういいよね”と思わせる策略ではないだろう。

存在が疑問というか意味が不明というか、せっかくこれだけのメンバーを揃えたのにもったいないことになってしまったと思う。

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遅ればせながら

千葉ロッテマリーンズ、リーグ優勝おめ。


マリーンズのベンチ(実際に試合を行う人)とファン(スタンドで応援する人)との関係は、とても幸せなものだと思う。

背番号26を“ファンの番号”(ベンチ入りする25人の選手の次に位置する者、ともに戦う者という意味合い)として、選手とファンが一丸となって勝利を目指すのだという気持ちを強調する。
ファンとしてこんな嬉しいことはないだろう。しかも、ベンチの壁には毎試合背番号26のユニホームが掲げられているのだ。それを目にしたファンは、それぞれにそのユニホームを着てベンチにいる自分を思い浮かべるだろう。
意気に感じたファンの応援は、自然と熱のこもったものになる。それを受ける選手は、恥ずかしいプレーは見せられないと懸命に戦う。
選手とファンの間に、互いにリスペクトしあっているような空気すら感じられて、これがまた見るたびに感動させられてしまう。

これは理想的な関係ではないだろうか。

サッカーもそうだが、スポーツの世界には(全部が全部というわけではないにせよ)そんな風にスタンドとフィールドが互いを尊重しつつ同じ目標に向かって団結するという空気が感じられる。

ではハロプロはどうだろう。
ステージと客席の間にそんな空気はあるだろうか。
あると感じられるんならこんな文章書きはしない。

もちろん、スポーツとエンタテインメントを単純に比較することはできない。
スポーツの場合同じ競技空間に今日倒すべき敵がいて、それに勝利するという具体的な目標がある。しかしエンタテインメントの場合、具体的な敵や目標が見えづらい。“公演を成功させる”といっても、ある者にとってのそれは何事もなく平穏無事に進行することだったり、またある者にとってはとにかく盛り上がることだったりするだろう。観客にしても、何をもって満足に至るかは千差万別だ。

それでも、“私たちはあなたたちと共にある”ということをお互いに明確にできる演出(といってしまおう)ができるのなら、ライブの空気がもう少し気持ちのいいものになると思う。


大事なのはリスペクト。演者に適度な敬意を払う観客、演者に適度な敬意を持たれる観客になりたいものだ。

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アフィリエイト導入記念・宣伝テスト

この秋の番組改編期では“日本語”を扱った番組を何本か見た。なかにはレギュラーになる番組もあるそうだ。

一般常識で番組作るなんて手抜きだと思う。


それより大事なことがある。

知識というものは、ないよりはあった方が恥をかかずに済むと思う。持ってて邪魔になるものでもないし。
ただ、知識だけあっても何にもならない。
特に言葉というものは、自分から他人に伝えるものであるのだから、言葉だけを知っていても意味はなく、それを使いこなし、自分のメッセージを間違いなく他人に伝えることができなければならない。

これはメッセージを受け取る側も同様で、使われる言葉や文脈から、相手が伝えようとしていることを間違いなく受け取らなければならない。

そうでなければ、言葉に意味はない。


まぁ自分自身それができているかと問われればそんなに自信があるわけでもなく、たまにはこういう本も読んでみたりしている。

「頭がいい」とは、文脈力である。
「頭がいい」とは、文脈力である。

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僕は行ってないのだが

なんか文化祭が色々と話題になっているらしい。

複数のサイトを回って情報を得ただけなのだが、行けばよかったかな~とも思った。いや予算と時間の都合がついてれば行ったのだ。横浜は遠いが。別に三連休のうち2日間をハロモニと全国学校音楽コンクールの録画と編集と焼きに費やすつもりではなかったのだ。余談だが、小中高あわせて8時間40分にもおよぶ動画を編集していて思ったのだが、なんだかんだいってもハロプロはさすが芸能人、美女・美少女ぞろいである。


で、話題の一つである劇でのミキティの脚、もとい、ヤグチマリコさんネタの件である。

要約するとこんな感じだろうか(間違いがあったら指摘してほしい)。

物語の舞台となっている「モーニング女子学園」を“校則違反の異性交遊で自主退学した”ヤグチマリコさんという人がいる。
彼女はその後バイト先の新横浜の飲み屋で知り合ったロシア人の社長と結婚し(温暖化が進んでいる物語の時代では憧れの地である)ウラジオストクに行った。ある意味勝ち組。「辞めてよかったね」という者もいれば「負け組でけっこうだ」という者もいる。

まぁ単純にブラックなジョークとして暗い笑いは出てくるが、引っかかる点もある。

1)夏ハロのMCでもあったらしい(DVDは買ったがMCは飛ばして見ているのでわからない)が、要するに送り手はあの件をジョークにすることで笑わせてごまかそうとしているのではないか。

2)こういうヤバいネタを自分たちでやってしまうという自虐的でアイタタタ~な手法は、“レコード会社との契約が切れた”とMCで発表したり“メンバーがどんどん辞めてもお客さんは見に来る”と歌ってしまうような、僕がライブに足しげく通っていた1995~97年頃の制服向上委員会(SKi)を思い出させる。SKiといえば、マニアには有名な“地下アイドルの頂点”“アイドルファンの墓場(最終到達地)”“アイドルの皮をかぶった政治団体”である。また、コンサート会場で撮り下ろし映像のパッケージ商品やどんな実用性があるのかわからないグッズを販売することでも知られている。そこの常連客という立場からモーヲタになったのが自分であるから、なんだか余計なサービスをされているような感覚もある。

もうなりふり構ってはいられない、ということもあるのだろう。
ただ、最近のハロプロにはFCツアーや握手会の連発といった客への過剰接近が見受けられるので、気になるのだ。客との距離がどんどん近くなるというのも、やはりSKiを思い起こさせる。

それはそれで楽しいことはよく知っているのだが、僕は古いタイプのアイドルヲタクであるから、ステージに立つ人は“手が届きそうで届かない”存在でいてほしいと考える。

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とりあえず用件まで

Berryz工房 石村舞波 卒業のお知らせ


残念ですね。推しではありませんがもったいないなぁ~と思います。


それにしても。
何でしょうかね、このいい加減な発表のしかた。
決定事項を伝えるだけじゃ会社の辞令ですよ。僕らはいつアップフロントに入社したんでしょう

せめて、嘘でもいいから“なぜ”かを説明するのが誠意ってもんでしょう。
“学業専念”が理由でしょうか。中学生が芸能活動をやめたら、学業以外に何をするんでしょう。何の説明にもなっていません。
情報が溢れ、どんな疑問にも誰かが答えてくれるのが現代という時代であり、よくも悪くもそれに慣れ切ってしまったのが現代人なのです。“なぜ学業に専念しなければならないか”を説明しなければ、納得は得られないでしょう。
“説明する必要はない。納得してもらわなくて結構”と考えているのであれば、担当者はどこか別の企業で新人研修からやり直した方がいいのではないかと思います。

とはいえ、別に説明してもらわなくてもいいのかもしれません。
例によってネットでは裏事情の詮索が始まっています。遠からずすべてが明らかになるでしょう。知られたくないことがあったとして、それも含めて。

だから、矢口事件の時のように、なんでもいい(本当のことでなくてよい)から“こういう事情があって抜けることになりました”といってほしかったと思っています。そっちの方が、卒業それ自体よりも残念なことかもしれません。

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「恋の花」に関してどうしても気になること

ラジオか何かで早く聴けた人の間から“島谷ひとみの曲に似ている”という感想があった。僕も第一印象は同じ。まぁ島谷に書いている人(なのだそうだ)に曲を頼んだのだからそうなっても不思議ではないし、“アレ風に”という線を狙っていないのなら発注しないだろう。

これが他の人なら何も問題はないのだが、安倍なつみさんの場合は事情が異なる。
昨年のアレである。

あれによって、他人に悪いレッテルを貼って見下さずにはいられない一部のかわいそうな人たちとそれに影響された“世間”とかいうおめでたい人々の集まりにおいて、安倍なつみという人は“盗作をする人”になってしまった。

そういう人が、別のアーティストを容易に思い起こさせる曲をリリースしてしまう。誰が作っているのか、曲を作った人が他にどんな仕事をしているのかということに注目するのはファンと関係者と業界人だけである。その他の人々や悪意を持った人からは“またパクったか”と思われたり言われたりするのがオチだろう。それはマイナスにこそなれ、プラスに作用するはずがない。

このくらいのことが頭に浮かばない人、その程度の想像力しか持たない人が制作サイドに(しかも決定権を持つポジションにだ!)いるだとしたらあまりにも不幸だ。“言いたい奴には言わせておけ”というつもりなのかもしれないが、それはいくらなんでも悪評や悪意というものの伝わる速度と印象の強さをナメている。こういうのを“意識が低い”というのだと思う。


しかし、“ハロプロの(商品としての)CDはバカが作っている”とは思いたくない。バカが作ってヲタクが買っているなんて図式は無残だ。一生懸命に歌詞や曲を作っている人、歌っている人が哀れすぎる。なんとか我々の気を引こうとして間違って神経を逆撫でしちゃうこともあるプロデューサー(この曲では外れているが)のナイスガイも、そんなことじゃやってられないだろう。

ならば、無理にでもこれは“わざとやっている”と思うしかない。
“またパクリかよ”と言われたら、こうでも言って開き直るしかないだろう。


パクってなぜ悪いか!

貴様はいい、そうやって喚いていれば、気分も晴れるんだろうからな!

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世間かヲタか

僕はガンダムが大好き(見たのはF91までだが。Vとターンエーは見なきゃイカンと思ってはいるのだが・・・)なので、先日NHK-BS2で放送された「まるごと!機動戦士ガンダム」を非常に楽しみにしていたし、また楽しく見ることができた。


もっとも楽しみにしていたのは富野由悠季総監督のインタビュー。今となっては監督が「機動戦士ガンダム」という作品の話をするのは珍しく、もしかしたら電波媒体で正面切って話すのはこれが最後かもしれないと感じたので、気合入れて見てしまった。

とても面白く内容の濃い番組だったのだが、その中で語られた監督の言葉が、胸に刺さった。

「ファンが好きなのは当たり前なんですよ!僕が相手にしたのは世間なんですから」

「アニメファンというレベルが騒いで盛り上がったものなんてのは世間から無視されるものなんだから」

「(アニメファンが見るのは)それは当然なんです。だからファンが見るのはいいんです。悪いとは言ってないんです。ファンがいてこそ、それこそ商売が成り立つんだからありがたいんです。ただファンの評価はあくまでもファンの評価です。僕は世間に評価されたいの」

「映画になったというふうに言われるけど、ファンが見に来てくれるだけで、世間の人が見に来てくれてないんだから、僕の中では評価になり得ない」

「(社会現象にまでなったと語られることは)嘘です!嘘です。社会現象って言いたい人は、自分がファンだったために“かつてこういう盛り上がりがあったんだよ”って思いたいの。僕にしてみればそれは世間の盛り上がりではなくって、お前ら程度の盛り上がりなんだから、それは盛り上がりではありません。盛り上がりってのは最低今の『スター・ウォーズ』くらい言われてって盛り上がるんです」


自称富野信者としては嬉しくなるほどに“富野節”のオンパレードなのだが、これは一作品や一ジャンルの話ではないと思える。たとえばガンダムをモーニング娘。と置き換え、ファンをヲタに直してみても、これは通用するのではないだろうか。「ヲタが好きなのは当たり前なんですよ!」とか「ライブだってヲタが見に来るだけで世間の人が来ないから評価にならない」とか。ちょっと笑えてくる。

しかし、何から何まで当てはまるとは思えない。今のモーニング娘。やハロプロが、その送り手(メンバーではない)が「相手は世間なのだ」「ヲタが支持してくれるのは商売になるからありがたいが、もっと世間に評価されたい」と考えているかどうか怪しいと感じているからだ。

世間を相手にしているのなら、とても普段使いには適さないような(ロゴがデカデカと入っている等)グッズを売ったり、そのグッズに生写真をつけてコレクターの購買意欲を煽ったり、イベント参加(申込)券をCDに封入して行きたい(申し込みたい)数だけ買わせるように仕向けたりということをするだろうか。

それを間違っているというつもりは毛頭ないが、ヲタ向けに特化するでも世間に受け入れられるでもいいから、方向性を定めた方がスッキリするのではないかと思う。楽曲に関しては色々なタイプのものが存在してほしいので文句はいわないが、トータルプロデュースの問題としてはやりにくかろう。軸がブレてるザマを笑って楽しむということもできるが、あまり健康的なことではない。

恐らくは送り手の誰かに聞いたとしても「ファンも一般の人も両方楽しめるものを目指す」というような回答しか返ってこないだろう。それについては、上に書いたような実例から「笑えない冗談はやめてくれ」と言わざるを得ない。理想を持つのは結構だが、実態に即していなければ言葉遊びにもならない。


監督は「映画を撮るということに慎重になっている」ということについて、
「今の明確な目的っていうのは『スピルバーグとルーカスを黙らせなければいけない』っていう条件がついてんだもの」
「世間を黙らせるってのはそれくらいの力を持たないかぎり黙らせられない」
と語る。

現在の日本の音楽シーンで考えるならば、それは「B'zとサザンオールスターズの上をいく」ことだろうし、芸能界でいうなら「ジャニーズ事務所のタレントを超える」というくらいのことだろう。

果たして、ハロプロにそれが可能だろうか。
モーニング娘。はかつて浜崎あゆみとの勝負を避けるために楽曲ではなくキャラクターで勝負することにした、というのが都市伝説であることを祈る。

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涙が止まらない2回裏

2005年8月9日、フルキャストスタジアム宮城。2回裏、2アウトランナー一塁。バッター清原。

アナウンスが響く。
「ベイスターズ、選手の交代をお知らせします。

ピッチャー秦に代わりまして・・・佐々木

大歓声。
このアナウンスに何度心躍らせただろう。そう思った途端に涙が出てきた。

ストレートの最高球速は139km。
140も出ないのかよ、とまた涙。かつては150kmオーバーの直球に140km前後のフォークボールで並み居る打者をなで斬りにし“大魔神”と呼ばれた名クローザーがそんな球しか投げられないのか、そんな状態でも、まだ投げようというのか。

思い出す。恐らく球団史上最高であっただろう1997~98年。7回終了で1点リードしていたら、8回は盛田(または五十嵐)、9回は佐々木でほぼ間違いなく勝てた。ファンとしての贔屓目だが、日本球界史上最高の必勝リレーだった。

ボール、ストライク、ストライク。一球一球を噛みしめるかのように、清原はバットを振らない。
2ストライク1ボール。ウイニングショットは「ボールが消える」とまで言われた伝家の宝刀・フォークボール。
外角に外れたが、涙でろくにボールが見えなかったに違いない清原のバットは空を切った。

ハマの大魔神に誰もが求める“三振”。その851個目(アメリカでの成績を含めると1093個目)で締めた。


プレーよりも私生活や年俸の方が話題になる選手、抑えられないクローザーなんてもう終わってると思っていた。
故郷で最後を飾ろう、相手は一番対戦した打者がいいなんて、話が出た時はあまりにもベタベタでかえって萎えた(そういう日程が存在するところは彼の運の強さだと思うが)。

それでも、やっぱり感動した。野球で涙が出たのも、2回裏1アウトで試合が終わってくれていいと思ったのも初めてだ。


僕は忘れない。マウンドに君臨した荒ぶる神、ハマの大魔神を。

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輝ける明日のために・3

名古屋公演ではある事情からブーイングのようなものも起きたらしいが、もはや我々が相手にすべきは矢口真里というタレント一人ではないのだから、彼女のみへの攻撃と解釈されかねない行動は、決してよろしくはない。


ハロプロメンバーが活動することによって、送り手側は経済的利益を獲得し、受け手側は精神的充足を得る。その点において、二者は対等である。

逆にいえば、精神的充足を受けているのだから我々はその対価を進んで支払うべきなのだ。「金を払わないことが俺の精神的充足だ」などと言ったり考えたりする奴は、自分が幼稚で卑怯な思考をする人間なのだという事実に真剣に向かい合い、自分という人間はこのままで生きることが社会から許されるのかどうかを想像するだけの知性を命がけで身につけてほしいと思う。

ある程度利害が一致するのだから、我々はハロプロの名の下に一つになり、互いによき友人としてその活動を支え、盛り上げていけるはずなんじゃないかと思う。将来的には。

現状では難しい。友人関係というものは“五分の付き合い”という言葉があるように対等な関係であるべきものだが、彼我の関係は対等とはいい切れない。利害が一致しない部分については、明らかな差があるからだ。

送り手側は、ライブの中断や中止、あるいは“ヲタが気に入らないからハロプロ終了”まで決定できる。つまり自分たちの経済的利益と受け手側の精神的充足を引き換えにできるのだ。いや、先にチケットを売っている以上、制作者や出演者やスタッフに責任がない中断・中止ならば一円も損しないし、他に儲け口があるならハロプロを終わりにしても彼らの経済的利益は損なわれない。

しかし受け手はどうだろう。自分たちの精神的充足と送り手側の経済的利益を引き換えにできるだろうか。
CDを買わなかったりライブに行かないという手段は、一見有効なように思える。
しかし、実はヲタ一人がCDを買わなくても誰かが買うだけで、ライブに行かなければ誰かが行くだけなのである。お金を使ってくれる人がもっと減ってからなら別だが、現状ではとても有効な手段とはいえない。実際に「もうヲタやめた。今後ハロプロには金を使わない」と決めた人や単純に興味がなくなった人は大勢いるはずなのに、表面上は特に危機感を感じている風もなく商売が続いているではないか。

ヲタはハロプロがなくなったら困るかもしれないが、ハロプロ(の周りの大人たち)はヲタがいなくなってもかまわないのだ。
これは圧倒的なアドバンテージだ。


それに拮抗しうる強力な策を、行使するしないは別として、手に入れておきたい。

「こちらの言い分を受け入れなければ実力を行使する」
「そりゃ結構。しかしその時はそちらを殲滅する」

という緊張状態を作ることで、互いに奥の手を使わないという暗黙の紳士協定のようなものが生まれ、歩み寄りの姿勢というものもできてくるのではないだろうか。
悲しいことなのだろうが、少なくとも僕はそうならないとどうしても信用できない。そうなって初めて対等な関係だと思ってしまうくらいの不信感があるのだ。
僕は論理より感覚(感情)を優先する人間なので、“この人(たち)は信じられる”と感じることができればいかなる論理的な矛盾をも超えて信用してしまうのだが、そういう手ごたえは今のところ感じられない。

それでも、人は信じたい。
何でもいいから、向こう側にいる人たちと対等になりたい。そうでなければ「我々は我々の自由意志に基づいてあなたたちの提供するものを選択しているのだ」と胸を張って言うことはできないし、「ヲタというものはアイドルという嘘に付き合って、すすんで騙されてやっているのだ」という物言いも虚勢を張っているようにしか聞こえない。彼我の関係は、永遠に利用され、搾取され、最後には何ら省みられることもなく捨てられるだけの関係のままだろう。


顧客を軽んじるビジネスは破綻する。別に大人たちがどうなろうと自業自得だろうが、愛するメンバーちゃんたちに影響が及ぶのなら、それは未然に防ぎたい。
とはいえ、コアな客の方ばかりを向いたビジネスというものがどんなものかは、深夜アニメでも見ればわかると思う(「プレイボール」以外は見るだけ時間の無駄だが)。

その間のバランスをとる作業というのは、送り手と受け手の双方がそれぞれに、時には協力してやっていくものだと思う。
そのためにはお互い(特にヲタの側)が視野を広く持ち、勉強していかなければならないだろう。人生は勉強の連続である。


改めていう。
我々は手を取り合える。Hello!Projectの名の下に。
だったらそれをした方が、互いの幸福により近づけると、僕は思う。


(この件についてはいったんおわる。折に触れ再開の予定)

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輝ける明日のために・2

夏ハロ大阪公演は、何事もなく盛況に終わったらしい。

正直いって残念だ。


もしも本当に矢口事件に関して事務所の対応や事後処理に納得いかないものを感じる人が僕のほかにもいるのなら、それを行動で示してほしかった。
それによって送り手と受け手が本音をぶつけあい、互いによい緊張感を持ちながらライブやその他の活動を形作っていくという理想的な関係を築く第一歩を踏み出せるという甘い幻想を抱いていたのだ。

声を上げ、行動で示し、その数を増やしていかないと、向こう側に都合の悪いこと、都合の悪い行動をとる者は無視され、あるいは排斥される。ルールやマナーの美名のもとに、送り手にとって都合のいい者だけが“よい観客”とされていくことだろう。
釈然としない。

送り手と受け手という正反対の立場である以上、どうしても意見の相違や対立はある。
双方の立場の違いを理解し、耳の痛い意見でも聞くべきものは聞き入れ、節度を持ってよりよいライブ、よりよい活動のために協力できれば理想的だ。
しかし、残念ながら、今のところ僕はそこまで信用できない。
公演を中断あるいは中止するという最終兵器を握られている以上、主導権を握られた形だからだ。

それは抗いようもない強制力だ。最終兵器を使わせてすべてを台無しにするという選択もこちら側にはあるが、それは誰も幸せにしないことなので使わないに越したことはない。入場禁止あるいは威力業務妨害か何かで刑事告発という報復もあるだろうから、リスクが大きすぎる。


力を持った者はそれを行使したがる。自制できる強さを未だ獲得できずにいる。それは人類共通の弱点だろう。歴史をひもとけばそれは明らかだ。かろうじて成功したといえるのは東西冷戦時代に核兵器が使われなかったことくらいだろう。それも互いの最終兵器が抑止力として機能し、両陣営が“人類最後の日を迎えることを避ける”という共通の目的を持っていなかったらどうなっていたことか。

制作者は演者をコントロール下に置いているのだから、演出効果の名の下に観客をもコントロールしたいと考えていると疑っても間違いではないだろう。というか、僕が制作者なら間違いなく夢想する。

だが実際には、それが行える立場であっても実行はしないだろう。僕はコントロールされたくない。僕には僕の意思がある。それがわかっているからだ。
しかし現在の制作者も自制しているか、するつもりがあるかは疑問だ。彼らにとってコントロールは業務であり、日常的に行っていることだからだ。止める者もなく日常的に行っていることであれば、どんなことに対しても人の感覚というのは麻痺していく。
ましてや、何か(誰か)をコントロールすることは支配欲を充足させる“気持ちのいい”ことなのだから自制も難しいものだし、どうしてもエスカレートする。

個人の自由意志が(もちろん公共の福祉に反しない範囲内で)無視されたり排斥されたり、あるいは巧妙な誘導によって力のある者にコントロールされてしまったりしたら、見事なくらい模範的な奴隷の出来上がりだ。


奴隷は愛されもせず、また憎まれもしなかった。せいぜい家畜のように扱われ、ペットとして愛されただけである。だから関心がなくなったり不用になれば、簡単に捨てられもしたのだ。

(「憎悪 [世界]を破壊する人間の危険な感情」[ウィラード・ゲイリン著/中谷和男訳/アスペクト刊/2004年] 41~42ページより引用)

憎悪 [世界]を破壊する人間の危険な感情


この文章が、近代社会では否定されている階級制度の説明だけとは僕には思えない。試しに“奴隷”を“ヲタク”に換えて読んでみてほしい。


もしかしたら、ヲタクは奴隷なのかもしれない。それは執着(もはや趣味じゃないよね)の対象の、ではなく“資本主義”のそれだろうとは思うが。
だとしたら、それは解放されなくてはならない。


(もう開き直ろう。まだつづくぞ文句あるか)

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輝ける明日のために・1

それにしても、だ。不思議なことがある。
僕のように人生のほぼ三分の二をアイドルヲタクとして過ごしてきた人間なら、あちこちの事務所にさんざん煮え湯を飲まされているから“事務所がみんな悪い”という考えにもなる。
しかし、確かモーヲタにはモーニング娘。で初めてアイドルというものに興味を持った人が多かったのではなかっただろうか。なぜそういう人までが「事務所が悪い」という考えを持つのだろう。それだけ“タレントは事務所がコントロールしている”という認識が一般的になったということだろうか。


どうも夏ハロFCチケットの写真には矢口真里も入っているらしい。さらには会場売り生写真セットにも入っているそうだ。
これは単なる司会ではなく出演者の一人と解釈した方がいいのかもしれない。歌うらしいって未確認情報もあるし。まぁ稲葉貴子も司会と歌の両方やるから(写真があったかどうかは覚えてない)珍しいことでもないが。
でもBerryz工房のイベントでも司会をするってのは大丈夫なのだろうか。何しろ客はハロプロヲタ界(なんじゃそりゃ)でも最凶の過激派集団だし・・・知ーらないっと。

なんかもう、打つ手打つ手がことごとくみっともない。批判勢力(というものがあるのならば)に対して“こうしたらどんな反応が返ってくるか”という挑発込みの実験をしているのか、あるいは既成事実の積み重ねで黙らせるつもりなのか。
意図するところが何であれ、どうも釈然としない。

恐らく、事務所の偉い人たちは都合のいいことだけを“ファンの声”として採り入れ、それ以外は無視するか圧殺しようとしているのではないかと思う。幼稚だね

なんかブーイングとか色々やる計画が(どこまで本気かは不明だが)あるらしい。
個人的には止めはしない。今でも野球とかサッカーとかプロレスじゃそんなの日常茶飯事だし、1960~70年代のロック/フォーク方面のライブじゃ帰れコールだの投石だの前座バンド目当ての女性客をトイレでレイプだのあったそうだし。これ読んでる人の中にも「夕やけニャンニャン」のスタジオで常滑川まことに帰れコールしたり石橋貴明に蹴りぶち込んだ人とかいるでしょ?っていつの話だよ。

アイドル方面でも、たとえば1994~97年頃の制服向上委員会なんてブーイングどころじゃなかった。
野次、罵声、怒号。金返せコール。ステージに向かって缶ビール(開封済、中身入り)は飛ぶ、物販コーナーからビデオ強奪してぶちまける。乱闘騒ぎで警察が出動とか、警備スタッフ→ガードマン→警官という乱闘フルコースを展開した挙句に拘束衣みたいなのにくるまれて最寄りの警察署にご招待とか(それでもライブは中止にならず、中断も僕の知る限りでは一度だけというのもものすごい)。度重なる狼藉に業を煮やした事務所が客を訴えたり「我々にとって“いいお客さん”とはこちらの言うこと聞いて黙って金払ってくれる人」とスタッフが言い放ったりなんてこともあった。

だが、そうやって双方が本音でぶつかるうちに、信頼感のようなもの(だいぶ歪んだ形だが)も生まれた。さすがに人事に関しては口出しできないが、その他の件に関しては、言えばなんとかしてくれる、まぁ悪いようにはしない、とまで思えるようになった。事務所も事務所で“ここで客の顔を立てておけば文句は来ない”というやり方を学習したようだ。
互いに譲るところは譲り、衝突する場合は徹底的にというのは実に気持ちがよかった

地下アイドルと大メジャーを単純に比較するのはいくらなんでも無理があるとは思うが、こちらの意思を明確に伝えること、無視できないくらいの大きな声を上げ、行動を示すことは必要だと思う。「やっていいことと悪いことがある」という話もわからなくはない(そんな大げさな話ではないと思っているから、もしかしたらわかってないのかもしれない)が、何が有効かが確実にはわからない以上、思いついたことはやってみる価値があると思う。少なくとも何もしないよりは。

事務所とはケンカするべきだ。でないと彼らはわからないし、いつまで経っても“使える”事務所にならない。逆もまた然り。

間違って読んでほしくないのであらためて書くが、ブーイングは決してベストの方法ではない。確実に場の雰囲気を悪くしてしまうだろうから、むしろ悪いことだ。やろうと考えている人は「自分は悪いことをするんだ。お父さんお母さんごめんなさい」と真剣に思いながらやってほしい。悪は悪でも必要悪かもしれないから。


それにしても。
単純に矢口憎し、事務所憎しだけの行動では、何も変わらない。いつかまた、同じことが繰り返される。反対に「ちょっとヘマしちゃったな。ドンマイドンマイ」という態度でも、やはり何も変わらない。

そろそろ我々は、この不幸な関係を改善するべく行動すべきではないだろうか。


(いい加減終わりにしたいが、いいたいことがまだ残ってるのでたぶんつづく)

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矢口事件の事後処理を考える・2

矢口事件の事後処理について、僕が疑問に思う点を挙げてみよう。

(1)初動のミス。慌てて脱退を発表した理由がわからない。騒ぎを大きくしないようにとの配慮だったのかもしれないし、矢口の意思が固かったのだということなのだろうが、とりあえずは休業ということにして、石川梨華が卒業してから発表すればヲタをいたずらに動揺させることもなく、「石川卒業に集中したい時にそれを乱された」と批判されることはなかったはず。皮肉なことに、かえって騒ぎを大きくしてしまったと思う。

(2)なぜコメントを発するのがインターネットだったり興味のある人しか見ないテレビ番組だったりFC会員限定の1回あたり80人しか入場できないイベントだったりと“閉じた”場ばかりなのか。せめてソロ活動を本格的に始める時には記者会見がほしかった。不思議なもので、報道(驚かれるかもしれないが、ワイドショーもスポーツ紙の芸能面も報道である)という開かれた場を使ってコメントすることで、なんとなく受け手に“けじめがついた”と思わせてしまう作用がある。“禊”のシステムとしてこれ以上のものがないというのは安倍なつみの一件で体験しているはずなのだが。

(3)夏ハロMCの発表を公式HPのトップページにある「HEADLINE NEWS」ではなくトップ→schedule→tour→Hello!Projectの「ツアースケジュールはこちら」というややこしい手順を踏まないと確認できない場所で行ったのはなぜか。矢口の動向は矢口ファンも非常に気にしている。つまり情報が求められている。求められる情報はわかりやすい場所で出すのが思いやりというものではないだろうか。

どうもなし崩しに既成事実を積み上げ、何事もなかったかのように進めていこうという意図があるように思えてならない。何事もなかったはずはない。少なくとも、史上初めて卒業コンサートなしでメンバーが減るという異常事態だけは間違いなくあったのだ。

こういう行動をとるのは、何か後ろめたいことがあるか、正面切って対処すると危険に遭う可能性があると考えた場合だろう。
後ろめたいことは何もないはずだ。少なくとも理屈の上では。
では何か危険があったのだろうか。誰が誰を危険な目に遭わせるというのか。例えば、記者会見の会場に乱入して狼藉をはたらく者がいるとでも考えたのだろうか。あるいは、早い段階から矢口に自由にコメントさせると何か都合の悪いことがあったのだろうか。

(3)にすべてが表れていると思う。別にサプライズを仕掛けようとしたわけではあるまい。公式サイトのトップからワンクリックで確認できるところで発表したら多くのヲタが知ることとなる。それを避けようと考えたとしか思えない。
なぜ避けようとしたのかは、発表された後のヲタの反応が物語っている。本当か嘘かはわからないが、電話やメールで抗議した人がいるらしい。それが大量に来ること、メディアに知られてまた騒ぎになることを恐れたのだ。
間違ってはいないかもしれないが、ずいぶんと姑息なことをするものだ。

そう、一事が万事姑息なのだ。堂々としたところがまったくない。
なぜ堂々としない(できない)のか。

恐らく、自分たちが姑息なことをやっているという自覚はあるのだろう。それをごまかすためにまた姑息な手を重ねていくのだ。仕事で何かミスをして、ごまかすために嘘をついて、どんどん嘘を重ねていくことになって、最後には全部バレて、上司に怒鳴られるくらいならまだいいが社会問題にまで発展してしまったということはよくあること(あんまりあっても困るが)。それと似たようなものだ。
では、なぜ初めから堂々と対処せず姑息な手段を使ったのか。

もしかしたら、ヲタとは常に反発するものだと思っているのかもしれない。だから反発どころか何もいえない状況を作ろうとする。何もいわせなければ反発の声もない。
事実ヲタというのは事あるごとに事務所に対して不満を抱くものだが(苦笑)、初めからそう決めてかかられると悲しいものだ。やはり信じてほしいのだ。ヲタといえど一応は人間なのだから。

その不信が、問題の根本だとはいえないだろうか。
どちらが先に抱いた感情かはわからないが、一方の不信が相手の不信を呼び、互いに疑心暗鬼になった状態を作る。ヲタは事務所が信じられないから何かにつけて反発し、事務所はヲタ全体が信じられないから不満を封じ込め、一部の確実に文句を言わない者だけを相手にしようとする。

不信や疑念ですんでいるうちはまだいい。だが、それらはやがて憎悪を生む。脅すつもりはまったくないが、そうなった時に何が起きても不思議ではない。憎悪は簡単に理性のタガを外す。憎悪にとらわれた人間(たち)は、どんなに残忍で非人間的なことでも平気でする。それは歴史が証明している。


たぶんまだつづく。


(付記)
記者会見というものの効用については、芸能リポーターの井上公造氏が仕事上の立場から興味深いコメントを発しているので紹介する。イメージのよくない職業ではあるが、長く現場で活躍しているプロフェッショナルの言葉は傾聴に値すると思う。

ホームページや番組で結婚などを発表しても、どちらとも最初からファンが見ているものでしょう?だからファン以外の層の新たな人気獲得にはつながりませんよね。
(略)
ある大手プロダクションの社長が「記者会見をくぐり抜ける方がタレントは成長する」と言っていましたね。例えば不倫にしても、会見の対応一つで世間に与える印象が正反対になります。まさに記者会見というのは正念場なんです。何でも事務所が守ってくれると思うとタレントは成長しない。うまくかわすこともタレントの技量の一つなんです。

(角川書店「ザテレビジョン」2005年6月25日号108ページより)

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矢口事件の事後処理を考える・1

「矢口真里はハロプロメンバーではなくなっている」という説がある。

この記事のリードをよくご覧いただきたい。

2年ぶり!ハロプロ夏のシャッフルユニット聴かせます

参加メンバーは、総勢45人からフレッシュ、実力派、アダルトをコンセプトに11人を選抜し、
参加メンバーは、総勢45人
総勢45人


確か昨年のH.P.オールスターズの時は“総勢46人”だったはずだ。「ALL FOR ONE & ONE FOR ALL」のジャケット写真にも46人写っている。
誰かが抜けている。それが矢口ではないかというのだ。

ソロ活動をするというのはハロプロから抜けるという意味だったのかもしれないし、ハロプロライブのMCというのは基本的にはまことの仕事であり、アシスタント的な役割としてはメンバーである稲葉貴子が務めることもあるが、過去には加藤紀子が出たこともある。必ずしもハロプロメンバーである必要はない。
なるほど、頷けないことはない。

しかし、シャッフルユニットの記事が出た6月15日、まさにその日に矢口はハロプロのFC会員限定イベントに出演している。これはハロプロメンバーでなければ出演できない(メンバーでありながらまだ出演していない者もいる)はずだ。ここに矛盾が生じる。

この矛盾を解決するには公式なアナウンスが必要だと思うが、それはなされていない。今後もあるかどうかわからない。
これがなんとも中途半端に感じられ、モヤモヤした気分を残すことになる。

矢口事件が一部のヲタの間でこれほど長く尾を引くことになったのは、ひとえに事後処理の問題だろうと思う。リスクマネジメントが甘すぎるのではないだろうか。

何でもかんでも事務所が悪いというのは好きではない。もちろん事務所のマネージメントや方針の問題であることが多いのは確かだが、それをいってしまうとそこで思考が止まってしまうことがあり、事の本質を見誤ることにもなりかねない。

いい例が安倍なつみの盗作事件だろう。あれを「事務所がチェックすべき」というのは一理ある意見だが現実的ではない。事前に何を盗用するかがわからない以上、漏らさずチェックしようとするなら古今東西のあらゆる文学や音楽、ひいては人類がこれまでに発した言葉のすべてをデータベース化して検索する必要がある。それはいくらなんでも不可能だ。
あれはどう考えても“パクった奴が悪い”でしかないのだ。


それでは、試しに今回の件における事務所の対応について考えてみよう。
まずは記憶の限りで大まかに全体の流れを整理する。

4月10日、矢口、写真週刊誌に彼氏と二人でいるところを写真に撮られる。
矢口から事務所に「写真を撮られた。記事になると思われる」との報告がされる。
矢口と事務所との間で対応を協議。矢口から芸能界引退も視野に入れたモーニング娘。からの脱退が申し入れられる。
タレントとしての能力と可能性を惜しんだ(と思われる)事務所サイドは、十二分に反省していると判断したこともあってソロ活動を提案、矢口も了承。
4月14日、公式HPにて矢口の脱退と開催中の全国ツアーにおける出演の辞退を発表。
4月15日、写真週刊誌発売。脱退が各媒体で報道される。
4月22日、「音楽戦士」(日本テレビ系)にて矢口のコメント放送。
4月28日、「うたばん」(TBS系)にて矢口のコメント放送。
5月7日、石川梨華卒業コンサートに来場。
5月21日、「世界!超マネー研究所」(日本テレビ系)放送。脱退前からの仕事であった「やぐちひとり」(テレビ朝日系)を除いて考えれば、ここから事実上のソロ活動が開始されたと判断できる。
(日時不明)夏のハロプロライブにおいてMCを担当するという発表が公式HPで行われる。
6月14(~15)日、FC会員限定イベントに出演。あらためてコメントがあったらしい。

こうして振り返ると、対応に大きなミスはないように思える。
それでも、何か引っかかる。


つづく。

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矢口事件をまったく個人的に解決するまで・3

暇を持て余していると、忙しい時には縁のなかった考えにとらわれるとこもある。
一度は「ALL FOR ONE & ONE FOR ALL」に乗せられて再就職先を探すことに懸命になった(あれは人に希望を与える素晴らしい歌である)が、長続きしなかった。
ある命題の答えが見つけられずにいたからだ。

なぜ仕事をしなければいけないのだろう。
報酬を得る目的のほかに、仕事をする理由とは何だろう。

三十代も半ばを過ぎてから考えることでもなかろうと思うが、これを解決しない限り、積極的に仕事を探す気にはなれなかったのだ。
この命題について、少なくとも僕は納得できるという答えをようやく発見した。
もしかしたら、矢口真里の一件がなければ導き出されなかったものかもしれない。
ならば僕は彼女に感謝しなければいけないのだろうか。
そういうことならいっておく。
ありがとう矢口。

僕が今着ている服は、糸を作る人、布を織る人、服を作る仕事をする人が自分の仕事をしたから手に入れることができたもの。
食べるものは、農業、漁業、畜産業、食肉加工業をはじめ様々な仕事をする人たちの仕事の成果。
住んでいる家は、家を建てるのに必要な仕事をする人たちが間違いなく仕事をしたからあるもの。
(このほかにも流通や販売など、僕たちの生存に必要な仕事は数多くある)

行ったことも調べたこともないので外国のことはわからないが、少なくとも日本においては、人が仕事をしなければ、衣食住のどれも得ることができないのが現代である。
無人島で自給自足の生活を送る人もいるが、比率でいえばごくわずか。
分業専業制が確立した社会において、人は誰かが仕事をするから生きることができて、自分が仕事をすることで誰かを生かすものなのだ。

他人の仕事の成果で生きておいて、自分は仕事をしないというのは卑怯であり傲慢だろう。俺はお前たちが生きるために働くことをしないがお前たちは俺が生きるために働け、というのは許されない。それは隷属の強要であり、現代社会では否定されている。
だから人は仕事をしなければいけないし、それを疎かにしてはならない。
一生遊んで暮らせるだけの財産を持っている人も例外ではない。労働によって報酬を得る必要はないかもしれないが、金持ちには金持ちのなすべきことがあるはずなのだ。むしろそれだけに純粋に“誰かを生かす”仕事ができるといえよう。


そんな風に考えたことによって、僕は矢口に共感しながらもその行動を批判する根拠を獲得し、また自分の過去の行動と現状を反省し、自分も仕事をしなければいけないと思うようになり、求職活動に積極的になることができた。まだ再就職先は見つかっていないが、これまでとは仕事を探す姿勢が違っている。やる気が出てきたのだ。
もう一度いおう。ありがとう矢口。


これで僕の憎悪はほぼ解消され、批判すべきところはするがいたずらに非難することはしないという態度をとれるようになった。

しかし、すべての問題が解決したわけではない。
それでも僕は、矢口がMCを務めるという夏のハロプロライブに行く気になれないのだ。
舞台に現れる矢口も、彼女を歓迎してしまったり、問題の根本に考えが至らないのかそもそも問題であることがわからないのか、わけもわからず許容してしまったりしてしまうかもしれない客の姿も見たくない。
つまり、憎悪は消えても怒りは残っているということだ。

ただこれは矢口の責任ではないだろう。
要するに事後処理の問題であり、それは矢口に責任があるものとは思えないからだ。
本当の敵は矢口ではない。むしろ矢口はスケープゴートにされようとしているのかもしれない。


まだつづく。

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矢口事件をまったく個人的に解決するまで・2

『人はなぜ「憎む」のか』では、単に人が憎悪を抱くメカニズムを解説するにとどまらず、その暗い情動を克服するための「10の戦略」が提示されている。

(1)明確にする。 (2)共感する。 (3)伝える。 (4)交渉する。 (5)教育する。 (6)協力する。 (7)冷静に見る。 (8)追いつめられない。 (9)敵のふところに飛び込む。 (10)復讐ではなく正義を求める。
(『人はなぜ「憎む」のか』ラッシュ・W・ドージアJr.著/桃井緑美子訳/河出書房新社刊/2003年。45~49ページより)

(4)や(9)は実現が難しく、ほかにも今回における適当な対処でないものがある。それでもいくつかを実行してみたことで、僕の矢口真里に対する憎悪は、ほとんど消えたといってもいいくらい小さなものとなった。

(1)はすでに行った(前回参照)。
「訳者あとがき」によれば、ドージアJr.がもっとも重視しているのは(2)とのこと。同じく45~46ページから、もう少し長く引用する。

たとえ同感できない相手にも共感しなくてはならない。共感と同感は違う。共感とは他者の考え方や感じ方を理解しようとすることで、それを正しいと認めなくてもかまわないのだ。

この言葉は衝撃だった。
匿名掲示板で矢口を非難しながら、どこかに「自分のやっていることも正しくはない」という感覚があって、どちらが正しいのか明確にできない苛立ちがあったのだが、それは“どちらが正しいのか”にこだわり、一方が完全に正しくてもう一方が完全に間違っていると判断しなければならないように思い込んでいたからだったということがわかった。

そうではなく、
「君の気持ちはわかる。しかし君のとった行動は間違っている」
といえば、それができればいいのだ。
そして、思い出した。
僕もかつて、矢口と同じように“しなければならないこと”を放り出したことがある。


学生時代、必修科目の授業をサボって某UHF局の公開番組に通い続け、単位不足で卒業できず除籍となった。
会社員だった頃、仕事をしないで一日中匿名掲示板に入り浸り(初めは会社のPCで、やがては自分のノートPCを会社に持ち込んでPHSで接続するようになった)、リストラにおける人員削減の対象となった。

これは“仕事(学業)よりも別のものを優先した”という点で矢口と同じである。
つまり、僕は共感できる。そういうことは(特に若い時は)あるものなのだ。

だからといって「ああ、俺には矢口を批判する権利はないんだ」と枕を濡らすことはない。
そんな僕でも矢口の行動に怒りをおぼえるということは、「それはしてはならないのだ」ということを僕が理解したからだ。

しなければならないことよりも自分のしたいことを優先したくなることはある。それは理解できる。
しかし、それを行動にうつしてはいけない。
なぜか。それは「なぜ仕事をするのか」という命題に関わってくる。


つづく。

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矢口事件をまったく個人的に解決するまで・1

真剣に考えてみた。
なぜ、矢口真里が許せないのか。
もともとあまり好きな人ではなかったが、憎しみに近い感情まで抱いてしまったのはなぜか。
普段は他人に対してマイナスの感情を持つことがあまりないのに、なぜ、ことこの件に関してはこれほどまでに憤激しているのか。僕の心には何が起きているのか。それがわからないと、どうも落ち着いて生きられない。

「プロなんだから仕事を疎かにしてはならない。それをしてしまう人に仕事をされては困る。ましてやリーダーだったではないか。責任感がないのか」という一般論は正しいと思うが、どうもフィットしない。そもそも「なぜ仕事を疎かにしてはならないのか」という問いに答えられない。

感情を処理するために理性をはたらかせることは当然の方法だが、一歩間違えれば単なる自己正当化に終わる危険がある。もしかしたら本当に必要で確実な方法は、その感情が起きる心のメカニズムのようなものを知って納得し、対策を講じることなのかもしれない。

そんなことを考えながら別の用事で出かけた図書館で、こんな本と出合った。

『人はなぜ「憎む」のか』(ラッシュ・W・ドージアJr.著/桃井緑美子訳/河出書房新社刊/2003年)

人はなぜ憎むのか

目の前の霧が晴れたような感覚を久しぶりに味わった。

これ以上簡潔な説明を僕がすることは不可能なので29ページから引用する。

憎悪とは、進化の主たる目的である生存と生殖をおびやかすものを攻撃するか回避するために選びだす原始的な情動である。

思わず笑ってしまった。たったこれだけのことで、僕が矢口真里を憎んだ理由が説明できてしまうからだ。

そもそも何に怒っているかといえば、もっとも大きな要因は彼女が個人的な事情でテレビ番組やコンサートへの出演といった数々の仕事を突然放り出したことだ。

モーヲタはなぜ存在するのか。
モーニング娘。がいるから、では半分だけの正解。
曲もコンサートもテレビ番組も生写真も、すべて彼女たちの仕事の産物である。
つまり。
モーニング娘。が仕事をするからモーヲタは存在できる。
モーニング娘。が仕事をしなくなればモーヲタは存在できない。過去の仕事を検証し評価していく生き残り方もあるが、それではヲタクの大好きな“最新情報”が入ってこないので、よほど強い意思を持って拘泥し続けない限り長持ちはしない。


仕事をしないメンバー(それもリーダー)が現れたことでグループ全体への波及を懸念し、すべてのメンバーが仕事をしなくなる可能性を想起する。リーダーとはグループを代表する存在であり、全体がリーダーを範とするものであるからだ。

それは間違いなくモーヲタとしての僕の生存をおびやかす。さらに、モーヲタにおける“生殖”とは、モーニング娘。が仕事をし続けることによって新たな“お仲間”が増えることだろう(そこまでいかなくとも、少なくともヲタではない人から「今度の曲いいね」「○○って子かわいいね」などと言われると妙に嬉しいものである)これもまたおびやかされる。よって憎悪が生まれる。

こんな簡単で原始的なことで、僕は2ヶ月もイライラしていたのだ。
いや待てよ。そもそも「ハロプロをなんでも肯定する」などという、考えようによっちゃとても恥ずかしいタイトルのブログを始めたのも、何かにつけて曲が悪いだのメンバーがかわいくないだの無能だのもうおしまいだの解散は近いだのと否定的な言葉を連ねる匿名の悪意に対する憎悪があったのかもしれない。その発言の一つ一つがモーニング娘。に対して否定的な世の中の空気を作り、ひいてはモーニング娘。とモーヲタとしての俺の生存をおびやかしているんだよいい加減にしろと。僕はもしかして原始的なのだろうか。
ただ、たとえ発端が憎悪であったとしても、否定を否定することで対抗するのではなく、とにかく「肯定する」という行為をやってみようと考えたのはいいアイディアだったと自画自賛したい。誰も褒めてくれないから自分でやるしかないのだけれど。寂しい話だなぁ。


話が横道にそれた。
ちょっと長くなったので次回に続く。

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ガキさんと村さんのFCイベント

行ってきました。Ζガンダムの映画。予想通り「20年前にこれをやってくれれば」というものでした。20年経ってまとめてみたら新しいものになってしまうのだから、作品の奥深さと富野監督の貪欲さを改めて感じました。
・・・そうでなくて。いやホントに映画も見ましたが。

池袋で映画見た後に新宿経由で会場に行ったらもう行列ができてたんでちょっと慌てましたが、

整理番号1番だったので何食わぬ顔で先頭に。身分証チェックのスタッフ氏が入念にチェックしてくれたので、入ったのは2番目になっちゃいましたが。

前日レポでガキさんの立ち位置をチェックしておいたので、迷わずステージ向かって左の最前列へ。2日間出る場合は1日目が右、2日目が左のようです。あるいはイベントのタイトルで先に名前が出る方(公式HPの告知で上段に出てる方)が左、という想定もできるかもしれません。
この時安直に端の席を選んだことで色々ありました。

席に置かれたアンケート用紙に記入。書くの遅いのでこういうのは苦手。「早く帰りたいんだけど原稿まだ?」とデスクに催促され続けた雑誌記者時代を思い出しながら渾身のボケ回答を羅列。
「書き終わったら用紙を折らずに箱に入れてください」という指示。意味は後で判明。

何の盛り上げもなくアッサリと2人が登場。
村さんはメガネなし(あれはもしかして歌衣装なのか?)。デニムのタイトミニでカジュアルかつアダルティーという絶妙なポイントを突いてきました。
そしてガキさん。

どこのお姫様が出てきたか

と思いました。
純白。フリフリ。ロングスカート。なんか聞くところによるとカレンダーで着た衣装らしいです。例えるならハロモニコントの“太眉毛豆子”が高校生になったらこんな感じかな~みたいな。髪型もウェーブかけた豆子みたいでした。
ステージを走り回るいつものライブでは見られない衣装を見られるのも、このイベントの魅力の一つかもしれません。

簡単にあいさつした後で村さんが「涙の太陽」を歌った時に、ガキさんはステージの端に置かれた椅子で控えてたわけです。もちろん向かって左側。しかし、ガキさんと僕の間には観葉植物が(泣)。

トークコーナーでは村さんが最近ハマっているもの(塗って焼くと食パンがメロンパンになる魔法のクリーム)、ガキさんは写真集の裏話。ちなみに写真集は持ってるのですが、なんか見てしまうのがもったいなくて未開封(笑)。そっちの方がもったいないっつーの。

ガキさんが歌ったのはなんと「トウモロコシと空と風」。さすが安倍ヲタ最強。新垣里沙は伊達じゃない。

そしてメイン(?)はグラサンのガキさんがタモさんのいいとも風質問&悩み相談コーナー。ゲスト役の村さんが座る時にスカートの奥が(以下自粛)。正面はポスターでガードしてたんですが、ちょっと甘かった。

ここでアンケートに書かれた質問に答えていくわけですが、
用紙がみんな四つ折になってる。
事前にスタッフがチェックして読むものを決めているようです。だから集める時に「折るな」と言ったわけです。
ちなみに僕のは読まれず。自分ではうまくボケたつもりで実は寒かったってやつですね。

「ライブに行く日はいつも雨」という悩みを告白していた人がいたのですが、きっとこの人は僕の行く日には参戦してないのでしょう。降られたのって2003年娘。前橋コンの帰りくらいしかないんですよ僕。その時は地元(新潟県)から雪と一緒に関東に遠征してきたり今年の武道館も見事6日に行って降られたりした人と連番だったんですけどね。

“会場に一人だけいる人”のコーナーも再現。「今日が誕生日の人」がいなかったので「今日から前後3日間に誕生日を迎える(迎えた)人」でやっと一人。サイン入りポラに名前を入れて、二人がその人の席まで行って直直に手渡し。それから全員で「ハッピーバースデー」を斉唱。

最後に二人で「真夏の光線」ハワイアンヴァージョンを歌って終了、握手会へ。人数が少ないせいかいつものベルトコンベアみたいな状態と違って、それぞれ二言三言話す時間はありました。
村さんにはメロンライブを懇願。そしてガキさんには、以前「天才てれびくんMAX」(NHK教育)で稲川淳二氏が「女の子を褒めるときは服やアクセサリーを褒めろ」と言っていたのを思い出して衣装を絶賛。握手会に慣れている村さんはしっかり受け答えができていたのですが、まだまだ経験の足りないガキさんは「ありがとうございます」しか言ってくれませんでしたとさ(悲)。

「キモイのがいつまでもウロウロしてるとウザいからとっとと失せろ」(誇張)という指示があったので、おとなしく退散。新宿ルミネの新星堂で美勇伝のシングルV買って帰りました。


たまにはこういうまったりしたイベントってのもいいもんですな。会場が狭いから当然ステージとの距離も近いし。休日はだいたいライブがあるので平日にしか行われないとは思いますが、一度は見る価値のあるものだと思います。交通費(日帰り不可能な人はプラス宿泊費)を払っても損に思えないだけの満足感が得られると思います。当たるまでが大変という声もありますが。

俺の推しメンちゃんが出てくれないんだけど、という向き(というか、僕も特にガキさんや村さんを推してるわけではない。でもガキさんはかわいいと思う)には、普段ボケ役になることの多いメンバーの回を選ぶといいかもしれません。意外な一面を発見できるかもしれませんし、客席からツッコミを入れて遊ぶこともできます。ハロプロのMCは突っ込むタイミングが難しいんですけど。


7月は申し込むの忘れちゃったのですが(村さんみうなとかあいぼん柴ちゃんとか興味あったんですけど)、また行ってみたいな~と思います。今度は10月あたりにして、またΖガンダム見たりして。

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久々に「(怒)」

W目当てに音楽戦士を録画したら、思わず美勇伝まで出てくれてラッキーでした。ついでに劇場版Zガンダム(前売り券ほしかったけど買えないまま初日を迎えてしまいました)の歌まで。

しかし。
終わりの方に出てきたHINOIチームとかいうの、ありゃいったい何だ?

“チーム”とかいうセンスの欠片もないネーミングに、やることは今どきユーロとかパラパラとか。いくらなんでも外しすぎでしょ。そりゃあもう僕の馬券くらい。
中途半端に時代に媚びてるのか若い子を揃えて、やってることはズレてるし微妙に遅れてる。
こういうの大っ嫌いなんですよ。メンバーはそこそこかわいいだけに、逆にこういうのは頭に来る。

実際に舞台の上やカメラの前に立つ人(たち)に能力が足りなかったり何もわかってなかったりするからこそ、周りで作り上げる大人たちが己のセンスとか美学とか哲学とか技術とか知識とか経験とかそういうものをフルに発揮して、なおかつ時代の要求との落としどころを探り、見られる(聴ける)ものにしていく。これはもう義務だと思う。

ちょっと前に流行ったものをそのまま持ってきて、素材の魅力だけにすがってしまう、甘えてしまうというのは“やっつけ仕事”ではないのか。それではやらされる方がかわいそうだ。彼女たちにファンがいるとするならば(ハロプロばっかり見てるとそういう人たちにはお目にかかることはないんですけど)、彼ら(彼女たち)にも失礼じゃないかと僕は勝手に思っています。
こういうことはやってはいけないという例にはもってこいなのですけど、貴重な青春の時間を浪費する子たちに対して、どう責任を取ろうというのだろうここの大人たちは。

時代と関係ないことをやるんなら問題ないんですよ、つんく♂氏みたいな(笑)。「あーまたやってらぁ~」で済みますから。先を行くんじゃなく微妙な遅れ加減がイライラを増してくれる。

つんく♂氏の場合はうまい具合に珍しいものとか懐かしいものを出してきてくれるんでこちらは気持ちよく遊べるんですよね。あと「文句は俺が引き受ける」とばかりに調子のいいコメントを要所要所で発してくれますし。プロデュースワーク全体で考えると“しでかし”ちゃうことはあっても、少なくとも楽曲提供に関しては誠実というかセンスと責任感はあると感じますし、“変わったこと”をやり続けて(考えてみれば、これはなかなかできることでもありません)くれるんでこっち側に失望感を与えることもないと思っています。
確かに今年のシャッフルユニットのネーミングもどうかと思いますが、ギリギリ笑えるラインを保ってくれていると僕は思うのでこれはこれでアリです。センスがないならせめて笑いに持っていってほしいものです。


逆説的にハロプロの魅力を再認識させてくれました。ありがとうavex。


文句を言いたくなったら負け、気に入らないものは無視しろ、というのが普段からの僕の主張ではあるんですけど、これは黙っていられなかったのでダラダラと書きなぐってしまいました。
じゃ、風呂入って寝ます。


(付記)
7月2日放送の「王様のブランチ」(TBS系)を見て、謎が解けた。
渋谷のギャルサークルが“第四次パラパラブーム”なるものを仕掛けようとしていて、それにavexも一枚かんでいるらしい。あーそういうことなのね。
事情はどうあれ、新しいことに挑戦しようとしないのは終わってる、って印象は変わりませんが。

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紫陽花の謎

「紫陽花アイ愛物語」ってどっかで聴いたことあるような曲なんですが、それが何だったか思い出せない・・・某所では「夏祭り」(ジッタリンジン)といわれてるみたいですが、ちょっと違うような。吉田拓郎がこんな感じの曲書いてたような気もするんですけど、よく知らないし。

つーか、表でかなりトンチンカンなことを書いてしまってちょっと反省。

・この曲を書いたのはつんく♂氏ではない。
・メロディは“四七(ヨナ)抜き”という日本の伝統的音階を使っているので、コンセプトからは外れていない。

音楽的知識のなさと、そもそも買ってないことがバレバレですな。

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(泣)

PCのTVキャプチャソフトの機嫌がこのところ思わしくなく、録画中にいきなり落ちる事態がたまにありまして。
今までは保存しないものやレンタル店に置いてあるものだったので諦めもつきましたが。

・・・やっちまってくれました。昨日のハロモニ。
開始からわずか2分30秒ほどで落ちてました。久住小春密着の途中までしか録画されてなくて、ということは寝起きはじめ本編はアウト。もちろん最近気に入っている美勇伝の新曲スタジオライブも。

VHSは問題なく録画できていたので、キャプチャボードの外部入力につないでダビングしてみたら、なぜか無音。
ボードの音声入力はステレオミニプラグしかないのでLINE(赤白)出力→ステレオミニプラグ入力のケーブル使ったんですけど。
買った時以来読んでなかったマニュアルを引っ張り出してWindowsのボリュームコントロールを設定してもダメ。

もしかしてケーブルが「抵抗入り」なのがいけないのかとも思うんですが、買い直す予算はありません。オークス当たってればなんとかなったんですけど、シーザリオをあえて外した時点で当たるわけないですね。

とりあえず寝ます。なんとか2800円作れたので間違いなく今日郵便局に行ってFCイベントの代金払ってこないと。

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当たりました

6月FCイベント。しかも整理番号ひとケタ。

当たる基準?について色々議論されていたようですが、とりあえず出演する2名の個人グッズを買った覚えはなく、ハロショも2年近く行ってないので、グッズの購入頻度とか金額とかは関係ない“厳正な抽選”だと思って差し支えないようです。

会員証と期限証が見当たらなくてさんざん探しましたが無事見つかり、あとは住民基本台帳カードが出来てくるのを待つばかり。それよりも問題は、

2800円払うアテがない

ことなんですけどね。財布には2000円しかないし、こんな時に限ってヤフオクでゲームソフトとか落札しちゃうし(入札支援ソフトで適当に入札予約したものだから、終了してみてビックリ)。

オークスの馬券を当てるか初めから買わないかしないとお金がない(馬券代はPAT口座に入金済み)。さてどうしましょう。

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PCほしい

PCがもう1台ほしい。

今使ってるデスクトップはPC兼HDDレコーダーになっている。
一週間に録画する番組はけっこうある。

 ハロモニ。
 西遊記(東京MXテレビ)
 新必殺仕置人(テレビ埼玉)
 娘DOKYU!(石川梨華卒業関連のみ)
 ティンティンTOWN!(テレビ埼玉)
 トランスフォーマー2010(同)
 中山道
 開運音楽堂
 ウルトラマンネクサス
 幻星神ジャスティライザー
 王様のブランチ(佐藤弥生がレポートしたコーナーだけ保存)

よしゃあいいのに8Mbps(1分60MB相当)で録るのが半分以上あるため、80GBしかないHDDの容量がすぐ足りなくなる。残り容量が不足していると編集とDVDに焼く作業も遅くなるのでかなり頻繁に焼くことになる。セレロン2GHzという若干パワー不足のCPUだと、いくらメモリが1GBあろうと録画・編集・焼きの作業中は他の作業ができない。

それに加えて「DVD半額レンタル」とかいわれるとついつい県境越えていっぱい借りてきてDVD DecrypterとかDVD Shrink使ってナニするのでまたPCが働くことになる。


そうなると必然的にネットの時間も少なくなるし、表やここを更新するための下書きも推敲もできない。ネタの鮮度も悪くなる(武道館の話を一週間近く経ってからするのもどうかと思う)。かなり不自由。

昔は古いノートPCが1台あったのだけどHDDがお亡くなりになったし・・・古いWin98ノートでも探してみたいが、掘り出し物があったところで買う金ないしねぇ。


パッケージ化されてたりされると思われる番組はわざわざ自分で録画・編集しなくてもとは思うけど、これがマニアの悲しいところ。

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具合悪いです

武道館の帰りに汗まみれのまま新宿→渋谷→六本木と書店めぐりをして(隣の県まで行っても売ってない本というのがありまして)、スポーツ紙買うために徹夜して、仮眠してハロモニ見て、再び仮眠してNHKマイルCの馬券を買って、また仮眠して娘。目当てに野球見て・・・なんてことやってたら、なんか頭痛がして微熱が出てます。当たり前でしょうかね。早く寝たいこんな日に限ってノア中継が遅い。テレビ埼玉で再放送中の「新必殺仕置人」をタイマー予約しないと寝られないんですけど。

ハロモニが面白かった(武道館もそうでしたが、石川梨華の卒業というのはいつもの卒業と違ったどこかカラッとした空気が流れていて、これはこれで悪くないものでした)のはいいとして、そこまでしたのに馬券外すなよ俺。18頭から8頭ピックアップして、その段階ではラインクラフトもデアリングハートも候補に入ってたのに、牡馬相手はどうかなーと思って消したら牝馬ワンツーですか。実は5着のセイウンニムカウの馬単1着流しなんて買っていて、相手の中に3着馬と4着馬。着順掲示板を逆から読んだらズバリ的中で、僕はこれを「ずムハニミ馬券」と呼んでいます。だから何だといわれても困りますが。

およそ2ヶ月半ぶりの現場でしたが、やっぱり現場はいいですなぁ。まさに情報の宝庫。
いろいろネタが仕入れられたので、そろそろ表を更新できるかなと思っています。

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スランプ?

最近、表もこっちも更新が滞ってますなぁ。って他人事かよ。

別にネタがないわけでもないんですがね。久住小春の話もしたいし、「最近のモーニング娘。はちょいと迫力不足なんじゃないか?」って話もしたい。
でも、いざ書き出してみるとうまくまとまりませんで。メンバーをスーパーロボット大戦シリーズのユニットやパイロットに例えて「今もっとも必要とされるのは攻撃力の高いスーパー系じゃなかろうか。でも久住は精神コマンド要員っぽい」なんてのも、思いついた時は面白かったんですけど、うまく広がりませんで。

武道館が終わったら何か書けそうな気もしています。たぶんここまで挙げたのも入れて、また長ぁーいのを。

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へー。

モーニング娘。なるか!? 2年ぶりの首位!

新曲がけっこう売れてるようで。
やっぱりアレですかね、

石川梨華卒業コメント8cmCDプレゼント

の効果ですかね。僕もせっかく買ったんで申し込みますけど。


そういえば今日の「うたばん」に矢口真里が緊急出演だそうで。
「未来少年コナン」の最終回と「うたばん寸前」が重なってますが、そこで出てくることはないでしょう。
ま、どう言い繕ってもやっちゃったことは今さらどうにもならないので冷ややかな目で見ることにします。

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本日のビックリドッキリ

アダルトDVDを中古屋に売りにいったら「3枚で800円」とか言われたんで、そこに売るのはやめてヤフオクに出しました。
そうしたら1枚800円前後で売れたんですよ。
それはとてもラッキーなことだったのですが、落札者に連絡取ろうとして驚きました。

メールアドレスが個人名@会社名.co.jp


会社のPCでアダルトDVD落札ですか。

いい会社ですね。入札が夜の10時ってことは忙しい仕事なんでしょうね。

しかも発送先も会社ですか。

奥さんに内緒とかそういうことでしょうか。会社に送っても怪しまれないくらい郵便物の多い仕事なんでしょうね。

お仕事頑張ってください。家庭も大切に。


こういうの初めてだったんですけど、よくあることなんでしょうかね。

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さすがに

一週間も矢口矢口騒いでたら少しは落ち着いた。気持ちを切り替えられたのか飽きたのかはわからんが。

署名とかいう反モー。運動は自重してほしいという気持ちに変わりはないが、なんとかいつもと変わらない気分で武道館を迎えられそうだ。未確認情報によると紺野あさ美生誕祭りは昼公演でやるらしいので、夜のチケしか持ってない僕は_| ̄|○だが。

それでも今日のMステと音楽戦士はリアルタイムでは見ないと思う。新曲聴かないと表のネタがないんだけど、無駄が多いんだもーん。録画して編集しながら見るとしよう。

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なんか

表のアクセス解析を見ていたら、検索フレーズに

「矢口真里 死ね おしまいだ」

というのがあった。


ものすごく気持ち悪い

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えーと・・・

正直なところ、かーなーり動揺してます。
落ち着いたら表でも書こうかなぁ~とは思いますが、とりあえずここで。

素直な感想を一言述べるなら、


矢口だっせええええええええええ


という感じ。


ただ。
ダサかろうとかっこ悪かろうと、そんな自分の丸ごと全部で勝負するのが正しいロックのあり方だろうとも思うので、

ロックとしては何も間違っていない

ということは言えると思います。


どんな事情があったかなんて知りません。知りたくもありません。
目の前にあることがすべてです。


読み返してみましたが、表で矢口真里について色々書いたことが、ものすごく空々しく感じられます。10日もかかって書いた入魂の文章だったのに。
それが一番悲しいのだから、僕が一番勝手な人間なのです。

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と、いうわけで。

大乱舞DVDと「愛の第6感」買ってきましたよ。雨の中。CDショップまで片道15kmくらい10km弱ほどあるらしいんですけどね。正確に測ると行く気なくなるんで測りませんよ。行きましたよ自転車で。田舎に住んでて車持ってないとこういう時困りますね。
大乱舞は売れてるらしい(週間売上ランキングで1位になった)のでさすがに初回版はなくなってました。それよりも「第6感」の初回版がまだあったってのはどうよ。確かに地元の町でモーヲタはたぶん僕だけらしいけど、CDショップのある街はけっこういるみたいなのに。別にいいけどね。

さっそくDVDは見ちゃいました。感想はこちら

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桜花賞

ありがとうラインクラフト。ありがとうシーザリオ。

シーザリオから馬単1着流しかけて、1点だけ裏目を押さえた俺グッジョブ。

ロト6でも1000円2口当たったし、これでやっとオールスターズ大乱舞DVDと「愛の第6感」が買える。

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特別な日

失業期間も2年になろうかというくらい長くなり、テレビの深夜番組にいくつか面白いものを見つけてしまうと、生活リズムはきれいに逆転する。
朝の6時は寝る時間。
でも、今日はそんな時間に起床。徹夜なしで朝陽を浴びたのはいつ以来だろう。

日頃は「24時間365日ヲタ」を自認してますが、毎年4月8日だけは特別。
基本的に、一切のヲタ活動をしない日。中澤裕子がモーニング娘。を卒業するツアーの東京公演が2001年のこの日だったから行かなかったくらい、そこはこだわっている。

自宅から5km以上10km未満くらいの距離にあるJRの駅に向かう途中、自転車のクランク(ここ参照)が外れる。昨日直してもらったばかりなのに。
昨日行った店に行き、交換。1000円。無料でやってくれてもいいでしょうに。昨日の500円ムダになったんだから。無職には大金なんだぞ。
ま、なんとか予定の電車に乗れたからいいとするか。


四谷四丁目交差点に集まった人々の数は、適当に数えて30人前後。去年もこのくらいだったなぁ。
これだけの人が、まだ忘れずにいる。お寺の方に向かった人も含めればもっと多いはず。
一年ぶりに会う友としばし旧交を暖める。今のヲタ用語で言うところの“馴れ合い”だ。


あれから、もう19年。


あの時僕は高校生だった。まだ腕立て伏せも腹筋もできたし、体重が100kgに近づいてイヤーな気分になることも、体脂肪率が40%を超えて呆然とすることもなかった。
中学生の頃からあるアイドルのFCに入ってはいたが、どちらかというとアニメとか特撮とかに熱中していた。


1986年のあの日から、僕の人生は変わり始めたのだと思う。
人ひとりが生きられなくなるような世界には何があるのかを見たい(なぜか“体験したい”ではなかった)と思い、本格的にヲタの世界に足を踏み入れた。
それから、色々な女の子たちの青春のひとときに付き合い、色々な体験をし、色々なものを見た。

芸能界には何があるのか、その全体像は外からはうかがい知れない。一言でいえば「色々ある」のだが、それはどんな仕事にもあることかもしれない。
逆に考えれば、僕たちもいつ“生きられなくなる”状況に追い込まれるかわからないのだ。

なぜ彼女がああいう行動をとってしまったのか、自分なりの結論のようなものはあるが、これは墓の下まで持っていくと決めている。誰かに言う類のものではないと思うから。


大事なことはそんなことではない。
彼女を愛し、忘れずにいる人々が今もいる。
彼女の存在がなければ出会わなかった人々がいる。

彼女が残したものは数々の素晴らしい歌唱と演技だけではない。
それと同じくらい素晴らしい人たちが、今この瞬間も生きている。


それが、彼女の生きた証だといってしまっても、あまり文句を言われることはないんじゃないかというのは、僕の勝手な思い込みだろうか。

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とはいうものの

これまであちこちの無料サービスで日記調のブログを立ち上げたものの、それも長続きせず。
自己ルールを厳しくしたがなぜか半年以上も続いてる・・・なぜなのかは自分でもわかりませんが。
ここはどのくらい続けられるかなぁ・・・

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“裏”はじめました

“表”はこちら

裏というと何やらインモラルな響きがありますが、決してエログではなく。
簡単にいうとネタとフリートークくらいの違いという感じ。表のスタイルをガチガチに固めちゃった反省というのもありまして、よりフリーな形というものをやってみたくなりました。

よろしかったらお付き合いのほどを。

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